22 坤族と昊族
夏の宮は池の上に建てられている。
橋はあるが、移動の殆どは小型の猪牙舟に乗っておこなう。池には赤や青、黄の睡蓮が咲き群れ、齢百を超える錦の鯉が舞っていた。池に浮かぶ宮のなかで最も大規模な建物が夏妃の宮だ。季妃の宮にある中庭は島になっており、馬や鶏、羊等の家畜が飼われていた。すべて凬妃が故郷から連れてきた家畜たちだ。
凬妃は大陸の南部にある山脈に根差す土着の部族だ。
山脈にはふたつの部族がいた。馬を駈る《坤族》と、鷹を操る《昊族》である。凬妃は坤族の姑娘だ。生まれたときから馬とともに育ち、五歳を迎えたら馬に乗る。馬は家族の一員であり、人生の伴侶に等しい。他の家畜もまた同様で、坤族が嫁入りするときは一家の家畜を最小でも九頭は連れていくのが習わしだという。
凬妃が診察を依頼してきた狗もそのときに連れてこられた一頭だ。このあたりでは見掛けない大型の狗で、狼ほどはある。
「朝から飯を食わなくてね。暑さでへばっているにしては様子が変だ」
「ふむ、これは毒ですね」
狗を診た経験はないが、とめどなく溢れる涎、眼の充血等をみるかぎりでは毒を飲んだとしか考えられなかった。
「毒を盛ったやつがいる、ということか」
凬妃の眼差しがとがる。
「いえ。おそらくは、そうではありません」
「でも、誰かに盛られないかぎり、そうそう毒なんか」
慧玲が狗に吐根からできた催吐剤を飲ませた。狗はもだえながら、薄紅の花の塊を喀きだす。慧玲はためらいなくそれを舐め、毒物を確認する。横で凬妃が仰天していた。
「……夾竹桃ですね」
「そんなものが毒になるのか」
中庭にはないが、夏の宮を華やかに飾りつける植物のひとつだ。おそらくは、散歩のときにでも誤食したのだろう。
「家畜だけではなく、人にたいしても猛毒です」
「おまえさん、そんなものを舐めてだいじょうぶなのか」
「私は毒に慣れていますので。狗の体重からして致死量には達していないと想いますが……栄養になる馬の赤身等を食べさせ、しばらくは安静にさせてあげてください」
「恩にきる」
凬妃は草地に腰を降ろして、安堵したように息をついた。
「それにしても……おまえさんはこいつを怖がらないんだな。嬉しいな。ここの女官たちは動物に慣れていないのか、狗どころか、鶏にも触れない始末でね」
視線をむければ、女官たちが悲鳴をあげながら鶏に追いかけまわされていた。
鶏といっても凬妃が連れてきたドンタオ鶏は家鶏の二倍、人間の子孩程の体長がある。隆々たる鱗に覆われた肢などは竜を想わせて、女官が怖がるのも頷けたが、慧玲の頭にあるのはもっと別のことだった。
「ドンタオ鶏はおいし……いえ、可愛らしいですよね」
「わかってくれるか!」
凬妃は瞳を輝かせた。
(これだけまるまると育っていたら、生姜をいれて鍋で煮こんだら、最高に旨いはず)
坤族は遊牧民だ。凍てつく季節になって食うにこまれば、馬を解体することもある。鶏を食物としてみていることがばれても怒られはしないだろうが……どうだろうか。口は禍のもとだ。
女官たちは家畜の面倒をみることに辟易している様子だが、ひとりだけ、手際よく馬に櫛をいれている女官がいた。赤い髪を三つ編みに結わえた背の低い女だ。
「彼女は昊族なんだ。故郷から連れてきた」
慧玲が想わず瞳を見張った。
「意外かい」
「失礼ながら。坤族と昊族は争いを続けていると聞き及んでいたもので」
ひとつの山脈に根を張っていても、いや、だからこそというべきか。ふたつの部族には埋まることのない溝があった。
坤族は大地の神を敬うが、昊族は空の神を崇める。それゆえ前者は馬を愛し、後者は鷹に信頼を寄せた。重ねて外見にも大きな違いがあった。坤族は凬妃のような重さのある黒髪をしているが、昊族は乾いた赤髪だ。
山脈を南北に分断して、紛争が繰りかえされてきたという。
「いいや……争いは、終わったよ。陛下が終わらせた」
凬妃の声は静かだった。
「だから、アタシがここにきたのさ」
今春のことだ。
現皇帝は領土を拡げるべく、山脈に軍を進めた。昊族を征夷して坤族と盟約を結んだという。山脈を統轄したことで今後は鉱物等が採掘でき、財政も潤うと宦官たちが話していた。その割には税がさがったという話は聞かないのだが――
盟約の証として後宮に遣わされたのが凬妃だ。
「アタシはかねてから、坤族と昊族がひとつになることを理想としていた。幾百年に渡って続いてきた民族の確執は易々とは取りはらえないが……帰る処を失った彼女のことが、どうにも哀れでね」
凬妃の差別意識のなさは昊族にたいしてのみならず、慧玲に接する際の態度にも現れていた。こんなふうに気楽に喋りかけてくれる妃嬪はそういない。慧玲も饒舌になる。
「その昔、旅をしていた頃に一度だけ、山脈を訪れたことがございます。塩湖群が階段のように列なる風景は、さながら蛟竜が横たわっているかのようで、自然とは斯くも雄大なものかと感銘を受けました」
「そうか、あんたも竜だとおもうのか。昊族はあれを天の龍が涙を流した後だという。坤族は伏龍が地の底で眠っている証拠だという。人の想うところは、たいして変わらないものだな」
遠き故郷を偲ぶように凬妃は雲ひとつない青空を仰ぐ。
「それにしても旅か。いいねえ。食医の知識は旅のなかで培ったものなのか」
「そんなところです」
いい旅ばかりではなかった。極寒の海で流氷と一緒に漂流したこともあれば、砂漠で生薬になる花を捜して延々と歩きまわったこともある。それでも辛いとは想わなかったのは、絶えず側に母親がいたからだ。
振りかえれば、いつだって、ひとりだったことはない。
(……いまは、ひとりだ)
胸に風の吹きこむような心地になった。孤独感なんかは、とうに捨てた。それは毒となる。捨てなければ、ならないものだ。
愁いを振りはらって、慧玲は晴れやかに微笑みかけた。
「不調があれば、いつでも御用命ください」
「助かる。ああ、そうだ。夏になってから、ちょいと熱っぽいんだが良い薬はないか。山脈にくらべて後宮は暑いからね」
触れて熱を測れば、確かに凬妃には微熱があった。火邪だろうか。
「後日、薬を調えて参ります」
帰りの船つき場にむかう九曲橋ですれ違った女官たちがひそひそと噂をしていた。凬様という言葉が聴こえて耳を傾ける。
「凬様は、ほんとに好い妃様よね。偉そうに命令したり、無理難題を吹っかけてきたりしないし……家畜さえ連れてきてなかったら、もっとよかったんだけど」
「あ、あと……ほら、なんか、くさいのよね」
女官たちも気づいていたのか。慧玲は表にはださず、苦笑いをこぼす。
(妃嬪とは想えないくらいに気取りがなくて、ほんとうに好いひとだけれど……臭い)
家畜臭が移っているのもあるだろうが、韮のような体臭がある。後宮の妃嬪たちはめったに大蒜や韮を食さない。民族の違いが食にも影響しているのだろうか。大蒜や韮などを日頃から食べているのだとすれば、火邪に侵されるのもわかる。
ふたつともよい薬になる蔬菜だが、もともとが強い食材だ。取り過ぎては火が溜まりすぎて、毒に転ず。
にわかに風が渡り、風鈴がいっせいに音を奏でだす。軒端という軒端に提げられているので、些か騒々しいくらいだ。
(……風鈴を提げれば提げるほど、暑さがましになる……わけでもないだろうに)
今夏は特に暑さのあまり、体調を崩す妃嬪がたくさんいるとか。
(これだったら、檸檬と梅干と蜂蜜を漬けこんだ飲み物を飲むほうがよっぽど、すっきりする。調薬のために取り寄せてもらった檸檬の残りがかなりあったはず……帰ったら飲もう)
風に運ばれてきたのか。雲がひとつ、またひとつと群れだす。にわか雨が降りだしそうだ。それまでには帰りたいと、慧玲は渡りの船に乗った。






