21 夏の妃 訪う
華の宮に茹だるような夏が訪れた。
後宮の夏は風鈴の調べと、夏に盛る花の香がする。
雪梅嬪の懐妊が公表されたのは雨の季節をすぎた頃だった。地毒による暗い報せばかりが続いていた宮廷に久方振りにもたらされた吉報はたちまちに都をかけめぐり、後宮を賑わせた。
「雪梅嬪。ご懐妊、おめでとうございます」
慧玲は病後の経過を確認しに雪梅嬪の房室を訪れていた。雪梅嬪は変わらず紅の襦裙に袖をとおしていたが、妊娠五カ月をすぎ、胎が膨らんできたので、さすがに帯で腰を締めあげることはしていない。
「いやだわ、そんなふうにあらたまって。……無事に公表できるのも貴女のおかげよ」
裙のすそから覗く雪梅嬪の素脚には、梅は咲いていなかった。むし暑い房室には梅の香はせず、涼を感じさせる香がたかれていた。
「後は胎の御子が健やかな男孩であることを祈るばかりだわ」
慧玲が脈を取れば、胎に宿っているのが男女のどちらかは九割がた解るだろうが、敢えてなにもいわずにおく。不要な面倒事はなるべくならば避けたい。
(なにせ、私はすぐにでも死刑になりかねない身だからね)
視線を感じて、慧玲が瞳を瞬かせた。雪梅嬪がなにやら慧玲のことを見つめている。
「それにしても、貴女。相変わらず紅もつけていないのね」
「私は食医ですから」
「食医であるよりもさきに、妃妾でしょう――貴女は肌が白すぎるんだから、紅くらいはつけないと貧相だわ。ほら、唇をむ、ってしなさい」
「え、あの、雪梅嬪……」
緑絹の袖をひかれて、抵抗する暇もなく、口紅を施された。鏡を差しだされる。そこには華やいだ姑娘の貌が映っていた。唇が真紅に艶めいて、さながら芍薬だ。
「貴女、自身も華だという自覚があって?」
(え、ないけど……? そもそも私は、皇帝の妾ではない。後宮に身をおくために末端の席を借りているだけなのだけれど)
慧玲が黙っていると、雪梅嬪はため息をついた。
「あきれた。一度くらいは恋をしてごらんなさいよ」
「はあ……恋、ですか」
なんでいきなり、恋の話題になるのか。
恋愛なんて考えたこともなかった。そんなものに時間を費やすくらいならば、蛇を捕獲する罠でも編んでいるほうがよほどに楽しい。
雪梅嬪は含みのある微笑を湛えて、紅の唇を綻ばす。
「恋は、いいわよ。明けそめるほどに喜びに満ちていて、燃えるほどに怨めしいものだもの」
彼女は皇帝の華でありながら、許されぬ恋に身をやつした経験がある。恋が毒と転じて、その身を梅に侵されたのがほんの春のことだ。
(それでよくも、他人に恋を推せるものだ)
慧玲にはとてもじゃないが、理解できない。
そのときだ。廻廊のほうから騒々しい声が聞こえた。
「いけませんってば! 今は雪梅様の診察中ですから! いくら季妃様とはいえども房室に御通しするわけには」
雪梅嬪つきの女官である小鈴の声だ。
小鈴の制止はむなしく、障子が乱暴にひらかれる。
「食医、いるかい」
現れたのは胡服を着こなした美女だった。この後宮において、華やかな裙ではなく素朴な袴を履いているのは彼女くらいだ。
「許可もなく房室にあがられるなんて、失礼ではありませんこと、夏妃様。襦裙を崩しての診察でしたら、如何なさるおつもりでしたの」
雪梅嬪が襦裙の裾をただして、きりっと睨みつける。夏の妃――凬は肩を竦めて、笑った。
「そんなに怒らないでおくれよ。女同士なんだ、気にすることはないさ」
「貴女様は御気になさらなくとも、私は気になります」
「雪梅嬪は気難しいな。まあ、今後は気をつけるから、勘弁してくれ。ちょいと一刻を争う事態でね」
凬妃は慧玲にむかって、いった。
「お前さん、狗は診れるかい」