2‐77蘭花茶小豆粥と華の涙
幸いなことにまだ息がある、薬をのめれば解毒できるはずだ。
「かならず助けます」
吐物で窒息しないよう横むきに寝かせ、慧玲は庖厨に移動する。夏の季宮の庖厨で働いていた女官たちに声をかけた。
「後宮食医です。愛妃に茶を淹れますので庖厨を借りても?」
「え、いいですけど」
女官たちを押し退けて、慧玲は調薬を始める。愛が毒を盛られて死に瀕していることは報せない。いま、騒ぎになっても解毒が後れるだけだ。
慧玲は袖からある茶葉を取りだす。これだけでも効能はあるが、愛はすでに毒がまわっている。さらに強い薬にするには――あたりをみまわして、鍋で煮られていたあずきに視線をとめる。
あずきには毒の排出を促進する効能がある。特に茸のような、酩酊に似た毒には効果てきめんだ。
煮あずきをよそった椀に、淹れたばかりの茶をそそぐ。
蘭花茶小豆粥だ。
一秒でも時が惜しかった。愛のもとにもどって声をかける。
「愛妃、御気を確かに、愛妃」
毒で気絶しているときに揺さぶるのは危険だ。頬をそっとたたき、声をかけ続けていると、愛がこぽっと唾を噴いて息をした。
「うっ、あ、たす、助けて……しに、死にたくない、の」
「だいじょうぶです。こちらを飲んでください。かならず助けますから」
息も絶え絶えだったが、愛はしがみつくように匙を含んだ。花茶とあずきの組みあわせは意外なものだが、華やかな香のなかにある素朴なあまさが絶妙だ。愛の呼吸が段々と落ちついてきた。
「蘭の、香ね……って、あれ」
意識を取りもどした愛が震えあがる。
「ま、まさか、この茶葉って」
「そう、毒茶です。あなたが後宮にまき散らしたものですよ」
愛は真実をさとられていると理解して言い訳を考えるような素振りをしたが、想いつかなかったのか、観念して項垂れた。
「わざわざこの毒茶を飲ませるなんて。復讐のつもり?」
「違います。この茶に含まれる毒蝗は煙草だけではなく大走野老の毒をも喰らい、吸収しています。大走野老の毒は紅天狗茸を解毒することができます」
まさに毒をもって毒を制する、だ。
ちなみに大走野老は農薬中毒の解毒にもつかわれている。蝗たちはそれを知って、この大走野老の毒を喰らったのかもしれなかった。
また、茸という土の毒が毒茶の木毒を相克するため、愛が毒疫にかかることもない。
「なぜ、このような危険な毒を茶葉に混ぜたのですか」
愛はぽつりとつぶやいた。
「妬ましかったのよ、御子を授かれる女たちが」
微かに震えを帯びた、花の落ちるような声だった。
「後宮にいる妃妾たちはあたしとは違って、ちゃんと女なんだっておもったら、うらやましくて、妬ましくて」
「あなたは不妊をわずらっておいでなのですね」
「そうよ。笄年を過ぎても初潮がこなくて。いまだに月の物がきたことは一度だってないのよ。虞家の領地では度々蝗害があってね、幼いころに蝗の毒にあたって生死を彷徨ったから、その時に壊れちゃったんだって医師から言われたわ」
母親は愛を哀れんでかばってくれていたが、酔った父親に殴られて死に、ひとり残された愛はでき損ないだと父親から疎まれた。御子を産めないのならばせめて稼げといわれて、娼婦まがいのことをさせられてきたという。
「領地に都から官吏がくるとね、客房に連れていかれて、官吏に跨って腰を振るの。いやだった時もあったかな。でも、もうなれちゃった。きもちいことは好きだもん。でも、男たちは許さない」
声がずんと重くなる。
「減るものじゃないって言うでしょ。減ってんのよ。奪われてるの。男にはわからない、わからないよ。それにね、男は母様を奪った」
父親を、彼女は男と言った。それだけで、慧玲は察しがついてしまった。
「毒疫がきてから、また蝗害があった。今度は毒の蝗よ。すごいわよ。天をみても地をみても蝗の群れでね、あれは雨みたいなもの。降るの、蝗が。通りすぎたあとにはなあんにも残らないの。草の根どころか、紙とか家畜の毛まで喰べるのよ、蝗って。領民が飢えて、男たちは妻を娘を売って食いつないでいたわ」
想像するだけでもぞっとした。飢えの地獄がどれほど酷いものかは、慧玲も母親との旅のなかで経験している。
「蝗害の時は、宮廷に申告すると特例として免税してもらえるんでしょう?」
「その通りです、よく知っておられますね」
「勉強したからね。でも、あの男は虞家の恥になるから申請はしないと言った。一族の誇りだとかなんとか言ってたけど、農民からの納税が減ると虞家に入る税も減るからいやだったんでしょ。でも結局は、農民たちが納税しないで領地を捨てただけだった」
生き残るため、祖父の地を捨てた農夫たちは賊になる。山脈の賊たちにもそうした事情があったのかもしれない。
民の憂さを想い、慧玲は唇をかみ締めた。
「それで借金地獄よ。あたし、後宮に売られたの」
「だから横領を?」
「そうよ、男たちから奪いつくしてやるつもりだった……でも、違ったのね、あたし。また、奪われてるだけだったのね」
愛は倚子に縋りつきながら身を持ちあげ、怒りにまかせて茶盆を払い除けた。華やかな茶杯が割れて、紅天狗茸の毒茶が飛び散る。
「やらせてくれるだけの馬鹿な女だってっ、ほんと笑っちゃうっ」
愛は無理に嗤おうとしたが、涙があふれてきて喉がつまった。ひきつけのように肩が跳ねる。化粧は崩れていたが、彼女は変わらずに華やかで、それが哀しかった。
「その通りだよっ。だって男に媚びろ、歓ばせろ、それいがいはなんにも教えてもらえなかったもん。字をおぼえて、医書を読んでたら殴られた。女が勉強なんかするな、学を身につけようなんておこがましいってね」
彼女は毒の華だ。男を恨み、女を妬み、毒になった。だが毒を身につけてもなお、喰い物にされるだけだった姑娘。
「なによ、哀れむつもり? 可哀想なものが好きなのは男も女も一緒なのね」
あおるような嘲笑に慧玲は耳を傾けない。倚子にしがみついた愛の側で膝をつき、慧玲は医師として語りかけた。
「御子をなしたいですか?」
「……」
愛は濡れた睫を瞬かせた。
「御子を、授かれるの?」
腐っていた愛の眼が、微かに光を取りもどした。
彼女はまだ、望みを捨てられないのだ。だが、果たして、それは心から望んでいるのか、あるいは怨嗟から湧きあがる執念なのかはさだかではなかった。
「日頃の食をあらためることで、月の物が滞りなく循るようにできます。不妊も改善されるかと。まずは御身をたいせつになさってください。後宮ではあなたに客を取らせるものはいません。あなたは男に抱かれなくていい、抱かせてはならない」
教えこむように繰りかえす。
「女に、なれる?」
「ですが、よく考えておいてください。御子をなすことが、女の幸福ではありません。御子を愛で、育むことは女の幸せのひとつですが、そうでなければと呪縛されることはないのです」
震え続けている愛の手を、強く握り締める。
「学ぶことを女の幸せとしてもいい」
小鈴がそうであるように。
愛は一瞬だけ、嬉しそうに瞳を緩め、すぐに強張らせた。
「むり、だよ。わかってるもん、死刑なんでしょ。毒を盛ったり、横領させたり、取りかえしのつかないことをしちゃったから」
「やりなおせます、まだ」
毒疫は絶った。故郷の茶葉を取り寄せた際の事故だと言い張れば、死刑にはならないはずだ。横領にかんしては彼女より、はるかに取り締まられるべきものがいるだろう。
愛は視線を彷徨わせ、紅の落ちた唇をかみ締めた。
毒が抜けて、残されたものはひとつ。
「……やりなおしたいよ、最悪だった人生ぜんぶ。やりなおせたら、どれだけ」
幼けない後悔だった。
いっきに強くなってきた雨が窓を弾いた。罪を洗い流すように黄昏混じりの雨が降る。華の涙もまた、つきることはなかった。