2 鱗の生えた妃妾
大陸最大の領地を統轄する帝国《剋》――度重なる戦乱を経て、ついに千年続いた争いを終わらせ、安寧を築きあげた。
だが覇者となった皇帝が悪政を敷いた。
民は飢え、宮廷では血の嵐が吹き荒れた。
これに義憤した庶兄が革命を起こして帝を処刑し、新たな皇帝となることで、ようやく真の平穏が訪れた――はずだった。
先帝の死後、さらなる禍が帝国に降りかかった。
《地毒》による禍だ。
秋から始まった地毒の禍は春になっても沈静のきざしはなく、地方で植物を腐らせ、家畜を蝕んだ。
飢饉で食物の値が昂騰するなど、地毒の影響は計り知れない。
帝都にもいつ《毒疫》が蔓延するかと民心に昏い陰を落としている。
帝都の東部には宮廷がある。
皇族や官職、宮女等を含めて約八万人が暮らす宮殿はその規模から小都とも称されていた。
そんな宮廷にひと際華やかな一角があった。
後宮だ。
後宮は春の宮、夏の宮、秋の宮、冬の宮に分轄され、皇后の次位にあたる《季妃》が其々の宮を統轄していた。季妃を含め、宮中には約百五十名の妃妾がいた。四百もの女官と宦官がともに居住している。
宮廷の規模からすれば、さほど大人数ではない。
だが先帝がほとんど後宮をつかっていなかったことから考えると、皇帝が替わったこの六カ月あまりでいっきに華やいだ。
麗人ばかりを選りすぐって集めているのはもちろんのこと、庭から宮中の調度品に到るまで奢侈のかぎりをつくした、皇帝による皇帝の為の絢爛なる華の宮だ。
だが地毒の障りは、風水によって護られているはずの後宮にも確実に忍び寄っていた。
例えるならば、そこは絹の海だった。
襦裙や帯がぬぎ散らかされた房室のなかに水の張られた大桶があった。湯帷子をまとった妃妾がちからなく項垂れて浸かっている。
彼女の名は芙香。
位は美人、正四品にあたる。
もとが絹を取り扱う商賈の令媛ということもあって、日頃から贅をつくしていることが房室を見まわすだけでもわかる。散乱する絹織物や錦織物は、庶民が何年も働き続けてようやく購入できるものばかりだ。
だがそれだけの襦裙や帯をもっていながら、芙香妃は現在、身なりを調えることもできないほどに衰えていた。
乱れた髪は濡れそぼり、眼も虚ろで生気を損なっている。時折金魚のように唇をはくはくと動かしているが、声にはならない。
身に張りついた湯帷子からは素肌が透けていた。
背に青あざのようなものが、浮かびあがっている。
――鱗だ。
艶のある青い鱗が、素肌を覆いつくしていた。
芙香妃の母親が食医に訴える。
「ある朝、突如脚が動かなくなりました。水に浸かりたいと訴えたきり、喋ることもできなくなり……医官に診せても首を横に振るばかりで。いったい、娘はどうなってしまったのでしょうか」
診察を終え、食医――慧玲がいう。
「芙香妃を蝕んでいるのは《水の毒》です」
彼女は現在、十五歳という若さながら《後宮の食医》という役職についている。
もっともいわくつきの――ではあるが。
そのいわくのため、彼女に診察を依頼するものはかぎられている。
芙香妃の母親とて典医にも匙を投げられていなければ、慧玲に娘を診せたいなどとは思わなかったに違いない。
「そ、それは《毒疫》……ということですか」
芙香妃の母がさあと青ざめた。無理からぬことだ。
昨今、世俗から離れた後宮にいても毒疫の噂を聴かぬ日はない。
毒疫はいかなる薬にもやわらげることはできず、いかに敏腕な医官でも治療することはできないという。
「左様でございます。水を異常に欲するところをみれば《木の毒》《火の毒》とも考えられますが、《木の毒》ならば乾燥が、《火の毒》ならば高熱が表れるはずです。芙香妃はいずれの症候もなく下肢に滞水による変異がみられるため、《水の毒》に相違ないかと」
「なんてこと……なぜ、娘がこんなことに」
慧玲は敢えて黙っていたが、房室の有様をみてすぐに水の毒だとわかった。
(散らかりすぎだ。それに噎せかけるくらいにかび臭い。いくら小姐様といっても、片づけひとつできないなんてあきれたものね。掃除をしない女官も女官だけど)
絹の大敵はかびである。袖を通した後の襦裙は汗を吸っているため、衣架に掛けて風を通すのが常識だが、どれもだらしなくまるめて放りだされていた。
かびを吸い続けることで、滞った水の毒に蝕まれたのだ。
「ただちに《水の毒》を解く薬を調えます」
慧玲はいったん退室し、庖房にむかうと、竈で熱していた土鍋を運ぶ。
「どうぞ、召しあがってください」
土鍋の蓋を取る。湯気と一緒にまろやかな酢の香りがたちのぼった。
「こ、これが薬なのですか? 粥のような」
粥というのは概ね、正解だ。
日頃の食は健康の基礎を造る。故に大陸には古くから医食同源という言葉があった。
毒に五種あるように、薬にも水の薬、火の薬、土の薬、金の薬、木の薬がある。食材にも然りだ。
(《水の毒》には水を吸収して堰きとめる《土の薬》を処方するのが常だ。でも、芙香妃の症状は土乗水。土が強すぎて、水を吸収しすぎている。だったら必要なのは水と土とを循環させる《木の薬》だ)
例えば、花椒、香橙、林檎、酢などは《木の薬》となる食べ物だ。この粥は林檎酢をはじめてとした《木の薬》をふんだんにつかい、最後に身体を芯から温める火の辛味として辣油を垂らした酸辣湯の粥だった。
いわば、薬膳だ。
(あとひとつ、素晴らしい薬効のあるものをいれているけれど)
芙香妃の母親はごくりと唾をのむ。
緊張に震える指で匙を取った。
桶の縁に寄りかかって項垂れている芙香妃に差しだす。芙香妃は食欲などないと言わんばかりに眉を寄せたが、香りに惹かれたのか、唇をひらいた。
温かな粥を啜る。
「っ……――」
刹那、芙香妃が瞳を見張った。続けてほろほろと涙があふれだす。
毒に侵されてから、彼女には絶えず渇きがあった。水を飲んでも、浸かっても、いっこうに治まらぬ強い渇きだ。
だが、この身がほんとうに欲していたものはこれだったのだ――
こぼれる涙からは、如実に感動が表れていた。
「おい、しい……もっ……と」
「あなた、声が……」
歓喜してさらに粥を差しだす芙香妃の母親に慧玲が助言する。
「粥の底に《《だしを取ったあとの骨》》があるので、よけてお召しあがりください」
芙香妃の母親は頷いた。
「あら、これですね。かたちからして、鶏の頚かしら」
「そのようなものです」
(ほんとうは今朝、捕まえた蝮だけれど……口は禍のもと。秘すれば、花だ)
昔、患者に教えたら吐いた。しかも盛大に。
知ったら最後、せっかくの食欲が失せかねない。
芙香妃はひとくち、またひとくちと匙を進めていく。
桶に張られた水に浮かびあがるものがあった。青い葩か――いや、鱗だ。芙香妃の肌から剥がれた鱗が水に綾をなす。碧い睡蓮の散り際を想わせた。
芙香妃は緩やかに身を起こして桶からあがった。濡れ髪や湯帷子から雫がこぼれたが、絹の海が浪だつことはない。錦の帯を踏みしめて、芙香妃は頬を綻ばせた。
「ああ、お母様……呼吸が、できます。歩け、ます」
自身が濡れることもいとわず、母親は芙香妃を抱き締める。
「奇蹟だわ……!」
芙香妃の母親が想わずこぼした感嘆の声に慧玲は肯った。
「仰せのとおりです。薬とは奇蹟をもたらす奇しき御力を備えたもの。されども薬は神から授かったものではありません。先人が創りあげた叡智の結晶にてございます。私は有難くも祖々の知識を継承した身です」
笄年《※十五歳》を迎えたばかりの姑娘の唇から紡がれたとは想えない重みのある言葉に、芙香妃の母は息をのむ。
「貴方はいったい」
慧玲は微笑み、慎ましやかに睫毛をふせた。孔雀の笄が微かに調べを奏でた。
「ただの食医にてございます」
ですが、と続ける。
「私は、いかなる毒をも絶ちて、薬と致しましょう」
芙香妃の母親はいたく感心する。
そのときだ。芙香妃が悲鳴をあげた。
「いやああ! お母様……これ!」
土鍋の底に蛇の頭が沈んでいたのをみてしまったらしい。悲鳴が二重奏になる。
「やはり、渾沌の姑娘は、噂に違わぬ毒婦なのね……! こんなおぞましい物を患者に食べさせるなんて! 危うく騙されるところだったわ!」
用は終わった、出ていけとばかりに房室から放りだされた。
(旨い薬を食べ、命も助かって、いまさら騙すもなにもないだろうに)
いっそ清々しいほどにてのひらを反されて、慧玲は呆気に取られる。
毒も薬も理に則っているというのに、人とはなんとも不条理なものだと、いまさらそれを嘆くでもなく慧玲はため息を重ねた。