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2‐75妬みという毒

 雨催あまもよいの曇天から、糸を垂らすように雫が落ちた。

 かといって雨になることもなく、逃げる慧玲フェイリンまつげを弾いた。敷石につまづく。転んで、膝を擦りむいた。だが、毒におかされたように焼ける胸のほうがよほどにつらかった。

 胸もとを押さえて、慧玲はうずくまる。


「なんで、こんな」


「教えてあげようか」


 後ろから、毒のある声が聴こえた。

 身をかえして振りかえる。いつのまにかヂェンがたたずんでいた。しりもちをついたままで後退って逃げだそうとすれば、服のすそを踏みつけられて地に縫いとめられる。


「理解できないんだろう? 強くて、聡明で、毒や薬を知りつくしたあんたが、こんなにあり触れた毒を知らないなんてね」


 酷く嬉しそうな声だ。

 愉快でたまらないとばかりに唇の端をゆがませた鴆に見くだされる。腕をひき寄せられ、慧玲フェイリンは唇を奪われた。なぜだか、酷くいやなきぶんになって抵抗する。

 なんとか振りほどいて、唇を拭った。


「おまえがいつ、誰となにをしていても、私には関係ない。でも彼女と重ねた唇で、私に接吻くちづけをするなんて――」


「はっ、するはずがないだろう、けがらわしい。あんな頭の腐った姑娘おんな、ほんとうだったら近寄りたくもないね」


 ヂェンが嗤った。


「だ、だって」


「顔を寄せただけだよ。貴女がのぞいているのは知っていたからね。想っていたとおり、貴女は勘違いしてくれた。だけど、ここまでとは想わなかったかな」


 顎をつかまれる。紫の双眸から視線が逸らせない。


「教えてあげるよ、それは妬みだ。心の毒だよ」


「毒……なんで」


 考えたこともなかった。

 みずからのなかにこんな毒があるなんて。


「理解できないなら、考えてみなよ。毒の解明は得意分野だろう?」


 考えて、ゆるゆると理解する。


「私は」


 鴆を奪われるのがこわかったのだ。


 毒だけではなく、彼の想いがひとつ残らず欲しかったのだと意識して、慧玲はかっと頬が燃えるのを感じた。自身がこんなふうに欲張りだったなんて知らなかった、知りたくなかったのに。耳まで熱かった。


「っ」


 咄嗟に顔を隠そうとしたが、腕をつかまれて阻まれた。


「いい眺めだね。あんたが恥じらっているところをみられるなんて」


 唇をかみ締めて睨みあげたが、鴆は愉快そうに笑うばかりだ。


「おまえはいつだって、私に毒ばかり教えるのね」


 諦めてつぶやけば、鴆はれた眼をどろりととろけさせた。


「そうだよ。言っただろう? あんたの毒をひきずりだしてやるって」


 ささやきながら、またも接吻くちづけが落とされた。

 身のうちの毒をさぐるように舌が絡みつき、息を奪われる。鴆にはすでに毒はないはずなのに、脊髄せきずいまで緩く痺れた。締めつけられていた胸がほどけるまでには、それほどかからなかった。


「毒がなくても……酔わされそう」


「……はっ、あんまりあおるなよ」


 鴆は低くわらって、慧玲の喉もとに唇を寄せた。

 唇を這わせて横に滑り、彼は彼女の細い首筋に浅くかみついた。毒蟲に刺されたような赤い痕を残して、彼は微笑む。


「妬むのは僕ばかりだとおもっていた」


 逢えなかったぶんも埋めあわせるようにもう一度だけ唇を重ね、やっと満ちたりて互いに呼吸をととのえる。


「逢えたついでに貴女の耳に入れておきたかったことがある」


 鴆が真剣な眼になって、喋りだす。


「宮廷では今、横領おうりょうが相ついでいてね。多額の官費を持ちだして帳簿を書き換えたものがいる。実行犯は宦官だろうが、僕は虞愛が絡んでいるものと疑っている。彼女ならば宦官を操るのは御手の物だ」


「でも、横領といってもどうやって。後宮の季宮ときみやに金を持ちこむのは難しいはずよ」


「宦官に指示してユゥ家の領地に振りこませることは可能だ。ユゥアイと逢瀬を重ねて聴きだしたが、なんでも虞が統轄する領地が昨年の夏蝗害に見舞われて借金地獄に陥っているらしい。虞愛は哀れみを誘ったつもりだろうが、横領の疑惑が高まっただけだよ」


 蝗害こうがいと聴いて、慧玲の表情が張りつめた。

 昨年の夏に蝗害が起きたのならば、時期から考えても後宮に虞愛ユゥアイが蝗を持ちこむことが可能だ。後宮に嫁いできた時から毒を撒くつもりだったのか。

 御渡みわたりのある時期ならば、ほかの妃が皇帝の御子おこはらまないように毒を撒き散らすのも理解できる。だが、今は皇帝がいない。姑息なたくらみではなく、もっと強い怨嗟を感じた。妊娠できる女そのものを怨んでいるような。

 いずれにしてもこの事で疑いは確信に変わった。慧玲は鴆に言いきる。


「後宮で毒茶をばら撒いたのもアイ妃よ」


「へえ、虞愛ユゥアイは浅はかなことをしたね。横領はともかく、毒のほうは再調査すれば首謀者が虞愛だったとわかる。宦官に嘘の自白を強要したことが確定すれば、横領事件のほうに調査が入った時にも虞愛が疑われるだろう。虞愛の身が危険かもしれないね。お荷物になった捨て駒は殺されるのがおきまりだ」


「どういうこと」


 裏で糸をひいているのが愛で、捨て駒は宦官たちのほうではないのか。


木偶でくを操っている者を、さらに操っている者がいるということだよ。宦官といっても無知なものもいれば、奸知かんちに長けた上級宦官もいる。糸というのは絡むものだ。解かなければ端緒はつかめない」


 毒を滲ませてヂェンが微笑む。


 垂天すいてんから雨が降りだした。ほつれた糸屑を想わせる細い雨だ。しぼみかけていた紫蘭しらんが雨にたたかれて、散った。

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