2‐73黄金卵の天津飯
七日振りに還ってきた後宮では紫陽花が咲きそろっていた。
「慧玲様っ、おかえりなさい」
離舎から藍星が飛びだしてきて、慧玲に抱きついた。咳もなく、声にも張りがある。
「藍星、もしかして毒疫が」
「ふふふ、げんきになってきましたっ」
藍星は胸を張る。
「解毒まではさすがに無理そうですが、慧玲様の薬膳のお陰で強くなったんだとおもいます。というわけで、調薬の補助だったらまかせてください」
帰還したばかりだが、毒疫で苦しんでいる患者たちが薬を待ち続けている。慧玲は後宮の庖房を借りて、調薬を始めた。
藍星には小鈴に預けていたある物を取りにいってもらった。
まもなくして、藍星は小さな壺を抱えてきた。
「頼まれていたとおり、毎日かかさずに混ぜてくださっていたみたいですが――これ、なんだったんですか」
慧玲が壺をあけ、藍星が覗きこむ。
黄褐色の、とろみのある味噌のようなものがつまっていた。絶妙に発酵していて香りたかい。ところどころに穀物のつぶが残っていて、それがまた、おいしそうだ。
「黒豆麹の醤です」
東の島から取り寄せた麹かびの残りをつかった。
かびは蝗の大敵だ。
大陸ではかつて蝗の群れに空が埋めつくされ、昼がなくなるほどの大蝗害があった。蝗が通ったあとは草ひとつ残らず、民は土を喰らうほどに飢えた。終わりのない地獄を終わらせたのがかびだ。東の島ではかびをつかって蝗の群を制するという。
「麹かびにて蝗の毒を絶ち、黒豆、蒲公英、金銀花で煙草の毒を解きます」
黒豆麹の醤をつかって、とろみのついたあんをつくる。金銀花、蒲公英は乾燥させて挽いたものをひとつまみだけ、あんに混ぜた。
「続けて、畢方の卵です」
鉦のかたちをした黄金の卵だ。毒の塩湖に落ちても浮遊するようにこのかたちになっているのだとか。この卵が木毒を絶つ最大の薬だ。
「はわわっ、おっきい。それに硬そうですね。ほんとうに金塊みたい。ちょっとやそっとでは割れなさそうですね。金槌を持ってきましょうか」
「この卵は割らずに取りださなければならないのです」
「え、ええっ!? ……哲学ですか?」
藍星は割るならまかせてくださいと張り切っていたが、途端に頭の痛そうな顔になる。
「こちらの卵殻膜には砒素の毒があり、外部から割られるといっきに毒が拡がって、ほかの卵まで捕食できないよう、敵の息の根をとめるんです」
「物騒な卵ですね」
「塩湖のなかはともかく、岸には捕食者がいますからね。ですが卵の頭と底には針の先端ほどの経穴があって、ここだけは外側から殻を貫通しても毒は拡がりません」
「でも、そんなに小さな孔からどうやって黄身とかを取りだすんですか」
「裏技があります」
慧玲が針を持ってきた。
卵の頭に穴をあけ、直線で結ばれるように測ってから底にも同様に針を刺す。ふいごをつかって風を吹きこめば、黄身と白身が飛びだしてきた。畢方の卵は白身まで黄金だ。
「うわあ、すごい。奇芸みたいじゃないですか」
ふわふわ、とろとろにたまごを焼き、炊きたてご飯に乗せる。最後に醤あんをたっぷりとかければ、できあがりだ。
「調いました。黄金卵の天津飯です」
まずは李紗の宮に運ぶ。
李紗の宮は花で埋もれていた。みがき抜かれた板張りの床にはうす紅の花が吹きだまり、噎せかえるほどの花の香が漂っている。
花の海にすわりこんで濡れた咳をしているのは李紗だ。唇からはひとつ、またひとつとかぎりなく花が咲いてはこぼれる。側には卦狼がつきそい、声をかけては背をなでてやっていた。
瞳に湛えた涙もまた、落ちたときには花になっていた。
「お待たせいたしました。薬です」
李紗は震える指で匙を取って、熱々の天津飯を口に運ぶ。つるりとした食感の天津飯ならば、荒れた喉でも食することができる。まろやかでこくのあるたまごに醤の旨みがとけたあんが絡んだ。
「……ああ」
食べ進めるごとに安らかな息が洩れて涙がまたひとつ、落ちた。だが、花になることはなく頬で弾けて袖を濡らす。
解毒がなされたのだ。
「また、あなたに助けていただきましたね、食医さん」
李紗は涙ながらに微笑む。続けて卦狼の腕をつかみ、嬉しいのか怒っているのか、微妙な声で訴えた。
「卦狼にも心からの御礼を。……あなたが手紙ひとつ残していなくなってしまったときは、どうしようかとおもいました。でも、約束どおり、帰ってきてくれた。ほんとうにありがとうございます」
あたりを埋めつくしていた花がしぼむ。木毒が絶たれた証だ。
「それにしても、なぜ、季めぐりの茶に毒がまざっていたのでしょう」
後宮にくるい咲いた花の毒疫は終息した。
だが、事件はいまだに終わらず。解けぬ毒が残り続けていた。






