2‐67死の塩湖を往け
母親と一緒に大陸を旅するなかで、慧玲が感銘を受けた風景は数えきれないが、なかでも心に残っているのが炎駒嶺の塩湖だった。
遙かなる峰々を背にして、約十里にわたって段状に連なる塩湖群が拡がる。白い塩湖は透きとおる青の清水を湛えて瑠璃にも劣らぬ輝きを帯びていた。青い鱗をした蛟竜が身を躍らせて、嶺を昇らんとするかのような雄大な風景だ。
幼き日の慧玲は塩湖にかけ寄り、清らかな水に手を浸そうとした。
「この塩湖は毒ですよ」
母親の言葉にびくっと振りかえる。
「毒、なのですか。こんなに透きとおっているのに」
「そもそも塩は毒です。取りすぎれば死にいたる。自死の時にもっともよくつかわれる身近な毒が、塩ですよ」
おとなの男ならば、茶碗一杯の塩で命を落とす。
「この湖は過多な塩分にくわえて砒素に似た毒があり、魚ですら棲息することはできません。ですが、ほら、ごらんなさい」
湖の底からにわかに黄金の波が湧きあがった。
海月の群だ。黄金の光を帯びた海月たちが悠々と青い湖を廻遊する。例えるならば真昼の星雲だ。魅せられて、慧玲は息をのむ。
「この海月にはとてもとても強い毒があるのでしょうね。だって、こんな毒の湖でもだいじょうぶなんですもの。そうですよね、母様」
そもそも、どのような海にも、毒のない海月というものはいない。だが、予想に反して慧玲の母親は首を横に振る。
「黄金海月に毒はありません。塩湖には海月を捕食する魚がいないので毒を持つ必要がなかったのですよ」
毒に衛られているから、無毒でいられる――慧玲は不思議な心地で母親の話を聴いていた。毒の湖を漂う毒のない海月たちの舞は美しく、穏やかで、いつまでも胸に残り続けた。
時が経った今でも、あの風景は慧玲のなかに焼きついている。
だからこそ、変わり果てた塩湖をみたときの絶望は尋常ならざるものがあった。
(竜が死んでいる)
慧玲は想った。
塩湖を取りまいていた森は燃えつきて骸をさらし、黒い灰に埋もれた湖岸には動物たちの骨が累積している。
透きとおる塩湖の青さだけが、変わらない。
竜はとうに息絶え、その身は崩れて腐乱しているのに、鱗だけが剥がれることなく輝き続けているかのような凄惨さを感じた。
塩湖の水鏡が黄金にゆらめくこともなかった。あれほどにいた黄金海月の群れは絶滅してしまったのだろうか。
「異様な湖だな。この俺でさえ噎せかえるくらい、死の臭いがたまってやがる」
「こんなところに鶴がいるとか、ちょっと想像がつかないんですけどね、俺」
集落でのひと晩を経て、慧玲たちは巽巽に導かれて塩湖にむかった。洞窟を抜けたところで巽巽と別れて、焼け野を踏みわけ、塩湖を眺望できる坂の上に到着した。
「ささっと終えて帰りましょう。なんか、喉がいがいがとしてきましたし」
毒の危険をはかるために慧玲が先頭を進んでいたが、彼女が湖をまえにして竦んでいたため、劉が先にいこうとした。だが、足首まで沈むほどに積もった灰を踏みつけたとたん、足が燃えあがった。
「うわっ、やっべぇ」
劉が退る。慌てて反対側の足で踏みつけ、鎮火させたが、右側の靴はすっかりと焼けこげてしまった。靴底がべろんと剥がれる。
「俺たちにはこれいじょうは近寄れそうにないですねぇ」
「ちっ、しかたねェな。だったらここからあげるか」
錬丹術で造った特殊な凧に卦狼が火をつけ、曇天にあげる。あとは狙いどおりに誘きだされてくれるかどうかだ。
縋るような想いで眺めていると、にわかに塩湖がざわめいた。
塩湖からひとつ、ふたつと火が舞いあがる。
畢方だ。
慧玲は畢方が飛躍した地点を瞬時に覚え、巣のある場所を目算する。親鳥が離れているうちに卵を回収しなければならない。
強い地毒に臆することなく、慧玲は塩湖にむかって坂をくだり、進む。
塩湖の岸には黒い雪のような灰が吹きだまり、膝たけを越えるほどに積もっていた。
踏みだすごとにごぽりと脚が沈む。裙のすそを持ちあげ歩き続けていたが、端から縮むように服が燃えはじめた。
「食医様、あれ、燃えてないですかっ。毒が効かないんじゃなかったんですかっ」
「食医、引きかえせ!」
背後から声が追いかけてきたが、慧玲は振りかえらない。
地毒が効かないというのは嘘ではなかった。皇后が火毒に害されたときも地毒のもとになった燃え殻を舐めたにもかかわらず、慧玲は毒疫にはならなかった。地毒は《《解毒しやすい》》。微量の地毒ならば毒がまわるまえに解毒できるほどに。
だが、これほどに多量な毒だと、解毒が追いつくまでは遅々と毒に蝕まれることになる。素脚が緩やかに焼けただれてきた。火のなかを渡っているような熱さが牙を剥く。靴はすでに燃えおちて崩れてしまった。
素足で燃え殻を踏みしだいて、慧玲は歩き続けた。
岸づたいに畢方の巣を捜す。
「あった」
塩の塊で組みあげた燃えない巣のなかに琥珀に似た半透明の卵がならんでいた。光を弾いてきらきらと瞬いている。岸から腕を伸ばしてつかんだのがさきか。
ぶわっと強い熱を感じた。咄嗟に視線をあげる。
青い翼をはばたかせて、男の身のたけを越える大きな鶴が舞いおりた。眼つきは鋭く、鉤型になった嘴は猛禽を想わせる。頭のとさかが、ゆらゆらと燃えていた。
「畢方――」