１９ 毒の暗殺者は嗤う
青銅の燈火が風もないのに、傾ぐように揺れた。
高値な膏脂を惜しまず、文書の訂正に勤しむ白髪頭の男が視線をあげる。古希を迎えた左丞相だ。先帝にたいする反乱を支援した第一人者でもある。庶兄に過ぎなかった男が皇帝の位に君臨できたのは彼という後ろ盾があったからこそだ。
「……気のせいか」
左丞相が再度文書に目線を落としかけたところで、今度は彼のすぐ背後で廻廊の床が軋んだ。
「……鴆か」
「左様です」
唐木の櫺子に細身の影が映る。戸を挿んで、言葉をかわす。
「今度こそ、息の根をとめてきたんだろうな」
「それについてご報告に参りました」
鴆が声の端々に喜色を漂わせながらいった。
「蔡 慧玲は殺さない」
「なんだと」
左丞相が倚子から立ちあがりかけた。だが、強い眩暈に見舞われたのか、倚子に倒れこむ。
「だから殺すのはおまえにするよ、左丞相」
「な……なんだ、これは」
視線を落とせば、左丞相の親指には蜘蛛が乗っていた。紫の繊毛が毒々しい蜘蛛だ。腕を動かして払いのけたくとも、痺れた指が微かにはねただけだった。
「依頼を破棄するときには依頼者を殺す――暗殺者の掟だ。知らなかったのか。害人者亦害己だよ」
左丞相は青ざめて、声をあげた。
「だ、誰か！ 誰か、おらんのか」
「助けはこないよ。梦毒蜂に刺されて、今頃は睡りの底に落ちているからね」
「こ、こんなことをして……許されると、おもっているのか。毒師の分際で……わ、儂は……儂を、いったい誰だと……」
喚き散らしていたが、神経毒がまわってきたのか、舌が縺れてきた。まもなく声もあげられなくなるだろう。
「誰、ねえ？ 官費の帳簿を書き換え、私腹をこやすしか能のない古狸だろう？ 蔡 慧玲を殺したがったのも地毒でひと稼ぎするつもりだったからだ。一部の者にとっては、時疫と戦争のときほど儲かる時期はないからね」
虚空を睨みつけていた左丞相の眼が白濁して、眼の裏からどっぷりと血潮が溢れてきた。眼から鼻から逆流する血が紫檀の文卓に垂れて、紙の文書を濡らす。左丞相は最後までなにかを喚いていたが、夥しい血潮を喀いて、息絶えた。毒蜘蛛が抜け殻になった老爺の背から落ち、櫺子の隙を抜けて鴆のもとに帰ってくる。
「いい蟲だ」
鴆は毒蜘蛛を褒めてから漢服の袖に隠した。
「如何に富を築いても満たされることなく、権威にしがみつき財を欲し続けて、身を滅ぼす……あたかも亡者だ」
みすぼらしいなと眉根をゆがめた。
鴆は廻廊の屋頂にあがり、月を吸って黄金掛かった瓦を踏みしめる。微かな音もさせずに宮廷の屋頂へと渡った。
「それにくらべて、彼女は」
鴆は烟管に火をつけ、細い烟のなかに白銀髪の後ろ姿を浮かべた。
蔡 慧玲。父帝の罪をかぶせられて化生の姑娘だと疎まれながら、償いのために薬を調え続ける廃姫。
可哀想なだけの姑娘ならば、殺すつもりだった。
だが彼女は、哀れなどではなかった。
孔雀の羽根を髪に挿し、緑の絹に青き帯を締めて。華やいだ微笑を唇に乗せても、媚びて、馨ることはなく。身に降りかかる毒を敢えて喰らい、強かに咲き誇る――《華》だった。
「毒を喰らう毒か」
華にはかならず、毒があるものだ。
美しければ、美しいほどに凄絶なる毒が。
「ああ、たまらないな」
鴆は烟管を吸って、一重の双眸をあまやかに蕩けさせた。
颶風が吹き渡る。玄雲が渦を捲きながら群がり、月を喰らった。まもなく嵐になるのだ。
風に髪を曝して、鴆は不穏に微笑む。睛の紫を鈍くひらめかせて。
「蔡 慧玲――あんたはこの毒を御しきれるのか。あるいは身のうちから毒に喰われるのか……実に楽しみだよ」
これにて「第一部」が完結いたしました。
ここまでお読みくださった皆様、御礼申しあげます。
連載は一旦停止となりますが、現在第二部を執筆しておりますので、
７月初旬には連載再開させていただきます。
慧玲の復讐はどうなるのか。麒麟が死んだとはどういうことなのか。
慧玲と鴆の関係はどうなっていくのか……まだまだ謎があります。
どうか楽しみに御待ちいただければ幸甚にてございます。
