2‐64怒れる坤族と三番目の民族
「坤族!?」
坤族は墨より黒い髪、昊族は赤い髪というのが、山脈に根差すふたつの民族を見分ける基準だ。だが坤族は部外者の侵入を阻むほどに排他的な民族ではなかったはずだ。
「名乗れ! 名乗らぬならば今度こそ射る!」
盟約を結んだのち、宮廷と坤族の関係は険悪化した。
坤族は宮廷が火禍をもたらしたのではないかと疑い、宮廷は盟約の証として後宮に嫁いだ凬が皇后に毒を盛ったことで坤族に不信感を懐いた。だとすれば、宮廷からの使者だと名乗るのは危険かもしれない。慧玲が「医師です」と名乗りかけたのがさきか、劉が声を張りあげた。
「俺たちは剋からの使者である。宮廷から遥々参じた」
同様に異常事態だと察していた卦狼が「この馬鹿が」とつぶやいた。
「剋だと」
「剋が攻めてきたのか」
「条約を破って」
殺気だつ坤族をみて、劉はぽかんとする。
「あれ、なんか、誤解されてません? また俺、なんかやっちゃいましたか?」
坤族がこちらにむかって、叫んできた。
「昨冬、宮廷が所望する希少な鳥を渡すかわりに我等は不可侵条約を結んだはず。それを破るのか」
「どうなってんだ、不可侵条約だって? 坊ちゃん、なにも聴かされてないのか」
「いや、なんも、知らなかったんですけど」
残念ながら、劉はうっかり知らなかったというのがありそうで、まったくもって信頼できない。だが、不可侵条約が公式に締結されていたのであれば、鴆が知らないはずはなかった。鴆から念を押されたら、さすがの劉も失念はしないだろう。そう想いたい。
「ひとつの可能性ですが」
慧玲が声を落としてつぶやく。
「雕皇帝陛下の解毒の時に宮廷から派遣された隊は坤族の助けを借りることができず、畢方の調達も停頓していた。かといって諦めて帰るわけにもいかず、勝手に不可侵条約を持ちだして、坤族を動かしたのではないでしょうか」
「責任を取れねェから報告もせず、有耶無耶にしたっつうわけか。あり得るな」
真実はどうであれ、取りかえしのつかない事態であることに違いはない。
「奴等に二度と山脈の地を踏ませてなるものか、かかれ――――」
坤族がいっせいに攻撃してきた。
矢の雨が風を切る。卦狼、劉は剣を振りまわして、確実に矢の群を弾き落とした。尋常ならざる瞬発力だ。
だが、荒ぶ矢の嵐に馬が恐慌をきたした。慧玲を乗せた馬が暴走する。慧玲は手綱を握り締めて馬をなだめようとした。だが、跳ねまわる馬からしがみついていられず、振り落とされる。
「きゃあっ」
慧玲が馬上から放りだされた。
落馬の衝撃を想像して慧玲は身を硬くしたが、地にたたきつけられることなく抱きとめられた。
「卦狼!」
卦狼に助けられ、とんと膝に乗せられる。
「撤退するぞ、坊ちゃん」
「了解です!」
だが、唐突に矢の射撃がやんだ。対話を求めているのかと期待したが、違った。
街道の先から大狗の群が押し寄せてきた。坤族が馬と大狗を使役する民族だったことを想いだす。
「軍狗か、くそっ、構えろ!」
争いのために訓練された狗だ。
狗の大群はいっせいに牙を剥き、馬に跳びかかってきた。卦狼は咄嗟に慧玲を肩に担ぎ、馬を捨てて着地する。馬は脚をかみ砕かれ、地にひきずり倒された。間一髪だ。
同様に馬から飛びおりた劉が地を蹴る。
「食医様の護衛は頼みましたよ。俺はひとまず狗を減らします」
慧玲の横を通りすぎ、劉は剣ひとつで突撃する。
無謀にもほどがある。だが、劉は型破りの強さで続々と狗を退けていく。獅子奮迅の勢いとはまさにこのことか。
空では鷂が危険を知らせるように旋廻して、鳴き続けていた。
慧玲はまったく役にたたないため、卦狼の後ろに隠れつつ事態の観察に徹する。
まわりは狗に取りかこまれていて、逃げだす隙はない。狗を振りきれたとしても、崖上から坤族が新たな矢をつがえて狙いをさだめている。退路はなかった。薬種を調達するどころか、これでは坤族に殺される。
「話を聴いてください!」
慧玲が声を張りあげ、坤族にむかって呼びかけた。
「誤解です、私たちは争いにきたわけではありません。私は食医です、毒疫で苦しむ患者たちのために薬種を取りに――」
「知るか」
坤族をひきいる男が激昂する。
「貴様らのせいで山脈が燃えた。見たか、毒された山脈の有様を。芽吹きもなく実りもなく動物たちは死に絶えた。水脈も殆どが枯渇して、残された水は塩湖だけだ。許せるものか、愛する故郷を滅ぼされたのだぞ」
男の剣幕に慧玲が竦みかけたが、息をまいて反論する。
「火禍は我々の思惑ではございません! あれは不運が重なった事故です」
「いかにあろうと故郷は焼かれた。不可侵条約も破られた。もう終わりだ、宮廷はこの時をもって坤族の敵となった!」
坤族がある物を持ちだしてきた。
「大砲――そんな」
坤族がなぜ、大砲という最新の兵器を持っているのか。不可解だが、いまはそれどころではなかった。
砲撃されてはひとたまりもない。
「こっちだよ」
背後から声を掛けられ、おどろいて振りかえる。
崖に横穴があった。
洞窟からは人が身を乗りだしている。暗い赤の髪。坤族とも昊族とも似て非なるこの髮のいろを、慧玲は知っていた。
「依依……」
想わず、声を洩らす。
夏の妃 凬に忠誠を誓っていた女官、依依。彼女は坤族と昊族の間に産まれた姑娘で、その髪のせいで坤族の集落で迫害されてきた。だが凬は彼女を受けいれた。凬は民族がひとつになることを理想としていた。依依の髪は凬にとって理想の具現だった。
だが、凬は復讐という毒を選んで死に、依依もまた後を追って毒を撒き散らし、死刑に処された。
だから、ここにいるのが依依であるはずがない。
「白澤様でしょう? お連れのひともこっちに」
あらためてみれば、それは志学(十五歳)ほどの少年だった。赤みを帯びた暗い髪をひとつに結わえて胡服をきている。
信頼できるかはわからない。だが逡巡している暇はなかった。
「卦狼様、劉様! こちらに!」
慧玲の一声に卦狼と劉は狗を振りきり、わき目もふらずに走ってきた。ふたりが洞窟に滑りこむのと同時に、砲弾が撃ちこまれる。
卦狼が息を切らして吹きあがる土煙を振りかえる。
「危ないところだったな」
「ほんと、やっべえって、さすがに砲弾は弾きかえせませんよ」
慧玲は微かに震えながらふたりの袖をつかんで、安堵の息をつく。
「よかった……ほんとうに」
砲撃が落ちつくとまた狗の咆哮が聴こえてきた。狗たちは崖に身を寄せて砲撃を避けたらしい。慧玲たちを捜しているのがわかる。
「早くっ、こっちだよ」
赤髮の少年にうながされ、洞窟を進む。
なかは緑の光を帯びた茸が群生していた。足場は悪いが進むのには支障はない。腰ほどの水かさがある浅瀬を渡り人の臭いを拡散して、狗から逃げきることができた。
洞窟を抜けるというところで少年が歩みを緩めた。
「ここまできたらだいじょうぶだよ」
「助けていただいて、ありがとうございます。ですが、なぜ私たちを助けてくださったのですか? 昊族、ではないですよね」
風が吹きつけてきた。
緑のにおいがする風だ。想わず、視線をあげた。森が拡がる。
真昼の穏やかな日差しのなかで、芽吹いたばかりの青葉がきらめいている。野の花が咲き群れて、蝶たちがたわむれていた。火禍の爪痕はない。
何処までも続く緑を背に少年が振りかえる。その肩に鷂が舞い降りて、翼をとじた。
「おいらは气族だよ。气族の巽巽だ」
聴きなれない民族だ。この山脈には坤族と昊族しかいないはず。慧玲の戸惑いを察して、少年がにっかりと笑った。
「昊族と坤族の混血民族さ!」
日頃から応援していただき、ありがとうございます。
今月はコミカライズ版の更新もありますので、引き続き「後宮食医の薬膳帖」をお楽しみいただければ幸甚でございます。






