2‐60食医、後宮から旅立つ
「ん、美味しかったわ」
膳をきれいにたいらげて、欣華皇后は微笑む。
今晩は仔羊と春野菜の煮こみだった。若い羊の赤身は臭みがなく、かまずともほろほろと崩れるほどにやわらかい。蕪、新玉葱、芽きゃべつといった春の野菜と一緒に鍋にいれ、異境から取り寄せた月桂葉で香りづけをした。陽を補い、気虚を改善する芳醇な薬膳だ。
「皇后陛下、折り入ってお願いがございます」
慧玲があらたまって低頭し、欣華皇后に嘆願する。
「季めぐりの茶葉に毒が混入しており、後宮にて毒疫の発症が相ついでおります。ですがこの毒疫を解毒するには、特殊な薬種が必要となります」
「わかったわ。遠征隊を組んで取り寄せましょう」
「有難き御言葉です。ですが、これはたいへん希少な物で、大陸南部に跨る山脈の塩湖でしか採取できないものです。火毒の残る土地に踏みいることになります。毒の効かない私でなければ、薬の素材を捜すまでもなく命を落とすことになるでしょう。出張の許諾をたまわりたくお願いいたします」
大陸南部の山脈とは先任の夏妃であった凬の故郷だ。
山脈には坤族と昊族というふたつの民族があり、長きにわたって争いを続けていた。昨年の春に雕皇帝は坤族と結託して昊族を滅ぼし、かの地には坤族だけが残った。だが争いのさなか、天毒によって山脈に火禍がもたらされた。
鎮火したあとも火の毒が残留している。
「事情はわかったわ。でも、あなたが後宮にいないあいだ、妾の脚の治療はどうなるのかしら」
「恐縮ながら、一時中断させていただくことになります」
「南部の山脈までは往復だけでも十日はかかるでしょう。調達するにしても五日は滞在することになるはず。知ってのとおり今はとても大事な時期よ。あなたがそれほど長期にわたって後宮をあけるのは残念ながら認可できないわ」
大掛かりな遠征隊を組むと、そうなるだろう。だが単身での移動ならば無理を押して走り続けることもできる。
「七日後にはかならず、薬種を調達して帰還いたします」
白澤であった母親と一緒に旅をしていたころは、駿馬を飛ばしては尋常ならざる速さで大陸の端から端まで駈けまわっていた。馬を駈る技能はもちろん、どんな馬でもたちまちに駿馬に変える薬膳を心得ている。
「どうかご許諾を」
欣華皇后は唇に指を添えてなやむ。
「……そういえば、地毒を直に喰らったことはなかったわよねぇ?」
微かにつぶやいてから華が綻ぶように微笑を咲かせた。
「許しましょう。後宮を衛るのが皇后の勤めですもの。例え皇帝陛下がおられなくなっても」
「皇后陛下の御仁愛に心より御礼申しあげます」
叩頭して額を地につけていた慧玲は、欣華が瞳を蕩かせて舌なめずりをしたことに気づかなかった。
◇
慧玲は旅支度を調えて、宮廷の北側にある裏玄関まできていた。
時刻は平旦(午前四時)を過ぎたころだ。朝を待たずして雲がきれて、明けの明星が瞬いていた。護衛をつけることもなく、慧玲は暗いうちに発つときめた。
それがどうしてこんなことになったのか。
露に濡れたようなうす縹の空の静寂を破って、喧しい声があがった。
「なんで、宦官なんかがついてくるんですかねぇ」
「お前こそなんだ、ちゃらついた絹の服なんか着やがって。観光じゃねェんだぞ、坊ちゃん」
慧玲はなぜか言い争う竜劉と卦狼に挟まれていた。
「媛さんの薬を捜しにいくんだろう? だったら、俺が道中の護衛をする。ただでもこの頃は賊が増えてやがるって噂だ。どんな危険があるかもわからん」
鉈ほどに頑強そうな刀を腰に携えた卦狼が呻る。
「俺は皇太子様に頼まれましたからねぇ。なんなら、めっちゃいきたくないです。でも辞退するか、首が飛ぶかって二択っぽかったのでしかたなくですよ」
たいする劉は重そうな荷を肩に掛け、欠伸ばかりしていた。
竜劉。彼は皇太子の補佐をする侍中という官職の男で、大士族である竜家の三男だ。秋宮の事件を調査してもらったほか、官吏に絡まれていたときに助けてもらったことがある。
「……鴆様もずいぶんと耳敏いのですね」
鴆の情報収集能力も皇后と大差ないのではないだろうか。
あれから鴆には逢えていない。旅のことは報告できなかったが、すでに知っているのであれば特に懸念はいらないだろう。だが、卦狼はどこから慧玲が後宮を離れることを聴いたのだろうか。急遽ということもあって藍星と、ある物を預けた小鈴にしか教えていないはずだが。
「お前、男の癖にどんだけ荷物を持ってきてんだよ」
「え、これですか? たいしたものはないですよ、着替えとか枕とか」
「お泊り会かよ」
卦狼が呆れかえる。
「俺ってば繊細なんで、枕が変わると眠れないんですよね」
「帰れ。帰って家で寝とけ」
「遠慮します、皇太子様に永眠させられそうなんで」
揉めているふたりをよそに、慧玲は持参してきた饅頭ほどの練り薬を馬に食べさせる。慧玲の薬には馬でさえ食欲をそそられるのか、がつがつとたいらげて、眼を見張る。
馬が漲る――鍛えられてきた筋肉が膨張して、隆々と盛りあがる。馬は力強い嘶きをあげ、後ろ脚で雄々しく立ちあがった。
「患者の身を想えば喋っている暇も惜しいです。いきましょう」
慧玲は馬に跨り、横腹を蹴る。馬は鼻息も荒く「待ってました」とばかりに駈けだす。硬い蹄で地を蹴り土煙を噴きあげて、慧玲を乗せた馬はたちまち遠ざかっていった。
卦狼と劉も薬を食べていきりたつ馬に慌てて乗り、慧玲の後を追いかけた。
寂れた都の郊外を抜けて草原にいたる。駿馬を通り越して暴れ馬の域だ。ともすれば騎乗者が振り落とされそうな速度だが、慧玲は爆走馬をかんたんに乗りこなしている。
「食医様、なんか活き活きしてませんか」
「意外に野生味が強いっつうか。やべェな、うかうかしてたら取り残されちまうぞ」
「げ、ほんとだ! もうみえなくなりそうですよ、やばすぎますって! 急いで追いかけましょう、おっさん!」
「おい、おっさんはやめろ」
地平線から朝日が昇る。夏を想わせる草いきれの風が吹き、晴れた青空に鷂が舞う。鷂は慧玲を導くように鳴いた。
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総合評価が念願の1万を突破いたしました。皆様の応援が日ごろからとてもとても支えになっております。連載をはじめたころはまさかここまでこられるとはおもいませんでした。
これからも「後宮食医の薬膳帖」をどうぞよろしくお願いいたします。






