2‐56夏の宮の毒花は傲慢に咲う
「だぁかぁらぁ、媚薬よ、媚薬。薬なんだから造れるでしょ?」
調薬を依頼されて、慧玲は夏の季宮にきていた。
昨晩まで続いていた雨が嘘のように晴れて、すでに夏を予感させる暑さだ。蟬のように賑やかな声で、新たな夏の妃は続けざまに喋る。
「あ、もしかして、媚薬っていうのがなにか、わからないとかぁ? ふふふ、それはごめんなさいねぇ? 食医ちゃん、まだ経験なさそうだもんね」
虞愛。先の夏妃である凬が処刑されたあと、新たに夏妃に選ばれた華だ。張りのある唇に紅を乗せ、微笑むさまは胡蝶蘭を連想させた。雪梅も欣華も大変麗しいが、彼女ほどに華やかで愛らしい妃には慧玲ですら逢ったことがなかった。時が時ならば傾国の美女と呼ばれただろう。
そんな愛だが、椅子の側には多くの宦官を侍らせていた。うちわであおがせたり、飲み物を持たせたり、髪をとかせたりしている。まるで女王様だ。
「御渡りもない今、媚薬を要するとは思えないのですが」
「あら、解らないの? それをつかって彼らと遊んであげるのよ、ね?」
宦官の袖をひき、唇を重ねた。濃厚な接吻に宦官はすっかりと耽溺している。慧玲は身を硬くして視線のやり場にこまりながら進言する。
「皇帝がおられない時期とはいえど、後宮に身をおくかぎりはそのような振る舞いは」
「食医ちゃんって、おかたいのねぇ。つまんなあい。御子ができなければ、なにをしたっていいでしょ」
愛は抜け抜けとそんなことを言った。
相手が宦官でも男女の関係を結べば、姦通の罪で死刑だ。慧玲は青ざめるが、愛は意にも介さずに続ける。
「花ざかりを、誰にも愛でられずに終えるなんてたえられないもの」
「お言葉ですが、野の花は誰に愛でられずとも咲くものでしょう。摘まれるのを望むならば、愛するひとの御手だけ。それが花の誇りであるはずです。違いますか」
「知ったようなことを言うのね。でも、あたしは野の花じゃないのよ。そうよね、あなたたち」
宦官たちは息を巻いて、賛同する。
「もちろんです。野の花なんて失礼にも程があります」
「愛様は蘭です。愛でられるために育てられた最高級の華です」
「お慕いいたしております、愛様」
「ね」
飼い犬を褒めるように愛は指さきで宦官たちの顎をなでた。宦官たちはとろけそうになっている。
「あ、密告してもむだよ。証拠がないもの。それに後宮の妃妾を取り締まっている刑部や大理寺のなかにはあたしを特別扱いしてくれる宦官がいるの。これまでにも嫉妬した女官が告発していたけど、彼女たちのほうがきっつい処罰を受けたみたいだしぃ」
華の顔を綻ばせながら、愛は残忍な眼をする。碌でもない女だ――さすがに我慢の限界がきて、慧玲が唇の端をひくつかせた。
「で、結局、媚薬は造れないのね? 案外役にたたないんだぁ、食医って」
とどめとばかりに嘲笑をあびせかけられる。
(藍星がいなくてよかった)
彼女だったらとっくに愛をぐうで殴っていてもおかしくはなかった。慧玲も頭をさげながら胸のうちで毒づく。
(知性も品性もない……碌でもない毒花ね)
◇
「ほっんとうにとんでもない姑娘でしょう? 虞愛って」
麗雪梅がふんと唇をとがらせた。
雪梅の御子である杏如の健診を終えて、慧玲は雪梅から茶会に誘われていた。
晴れやかな午後だ。青天に雲雀がさえずっている。咲きにおう姫うつぎにかこまれた亭には緑の風が吹きわたり、こもれびがさざめいていた。
「季めぐりの茶だって、彼女が選んだ茶葉というだけでどれほど希少なものでも飲むきぶんにはなれないわ」
慧玲は苦笑する。雪梅はよほどに愛をきらっているらしい。
雪梅も色事の噂が絶えなかったが、彼女の舞に惹かれて宦官や男が近寄ってきていただけで事実無根だ。雪梅はたったひとりの宦官とだけ、心を通わせた。
「男や宦官に褒められるのは私だって好きよ。でも、指さきひとつ、触れさせないわ。それが華たる身の矜持だもの」
雪梅は胸を張って、嫣然と唇を綻ばせた。
小鈴が茶をそそぐ。杯を満たす琥珀いろの茶から心落ちつく花の香が漂ってきた。
「以前、愛妃を告発した女官がいたのですが、そのような証拠はないと断じられたあげく、愛妃の私物を盗んだ罪をかぶせられて後宮から追放されてしまいました。横暴にもほどがあります」
小鈴の話に慧玲は眉を寄せた。
「ひどい話ですね」
「ああ、やだやだ、お茶がまずくなっちゃう。そんなことより、慧玲に教えたいことがあったのよ。ね、小鈴」
雪梅は辟易して愛の話を切りあげた。話を振られた小鈴は恥ずかしそうにはにかむ。
「はい、実はこのたび、春宮の経理をさせていただけることになりました」
慧玲は眼をまるくした。経理は宦官の役割であって、女官が帳簿の管理をするなんて異例だ。そもそも女の身では経理ができるようになる教育は受けられないはずだった。
そこまで考えて、慧玲は想いだす。小鈴は男のように勉強がしたかったと言った。小鈴の望みを聴いた雪梅は便宜をはかり、小鈴に書を与えていた。
「小鈴が確認したらね、経理係の宦官が横領を働いていたのよ。殷春がいたころはこんなことなかったのに。横領を明るみにだして差額を収めたら、今後は小鈴が経理をするよう、宮廷から任じられたの。すごいでしょう? 私も誇らしいわ」
「そんな、私なんか。雪梅様が勉強をさせてくださったお陰様です」
小鈴は頬を紅潮させ、恐縮する。慧玲は小鈴にむかって袖を掲げ、感服の意を表す。
「報われるには報われるだけの足跡があるものです。小鈴様が弛まぬ努力を重ねてこられた結果なのですから、誇ってください」
「もったいない御言葉です。ありがとうございます。女にだって、経理は務まるのだと宮廷に証明できたことが嬉しいです」
小鈴は幸せそうに微笑む。
女は教育を受けられない。科挙試験にも参加できない。
だが、民は平等であるべきだ。
女の身であろうと、小鈴のように意欲のあるものがきちんとした教育を受けられ、官職につけるようになるのが、道理にかなった社会のあり様ではないのか。
からになった茶杯に新たな茶がそそがれる。
「髪に挿している簪、新しい物になったのね」
雪梅に指摘されて、慧玲は髪に挿していた簪に手をやる。紫の藤花を模った珠飾りが微かに音を奏でた。
「実は……前の物が壊れてしまって」
「また、殿方からもらったのね。どう考えても、貴女の好みではないもの」
雪梅の推察どおりだ。慧玲は素朴で飾りのない物を好んでいた。華やかな物は身にそぐわないとおもっているからだ。
「似あいませんよね」
「悔しいほどに似あっているわ」
雪梅に褒められるなんておどろいた。雪梅は世辞をいわないため、とても信頼できる。
「愛されているのね。でも、気をつけなさいよ。自身の趣味で選んだ物を身につけさせて、女を染めあげようとする男はきまって蜘蛛みたいに執念ぶかいから」
想像がついてしまって、慧玲は苦笑する。
愛かどうかはわからずとも、愛執の念をむけられていることは事実だ。
「まあ、貴女にはそれくらいでちょうどいいんでしょうね。だって、貴女ってがんじがらめに縛られていないと雪みたいにふっといなくなってしまいそうだもの」
「そう、ですか? 私はそもそも後宮から離れることもないのですが」
ぽかんとして瞬きを繰りかえせば、雪梅はため息をついた。
「鈍感ね。そういうところよ」
春宮の命婦である黄葉が「失礼致します」と亭にあがってきた。宦官を連れている。
「李紗嬪よりの遣いのものがお越しです。慧玲様にご依頼があるとか」
卦狼は雪梅にむかって袖を掲げてから、慧玲にむきなおる。
「昨晩から媛さんが熱をだしている。昨晩までは咳だけだったが、今朝から様子がおかしい。診察を頼む」
仮面をつけていても青ざめているのがわかる。そうとうな異常事態だと察して、慧玲は茶会を辞して李紗の宮にむかう。
吹きつけてきた風が雲をあつめる。ぽつりと残された茶杯のなかに姫うつぎの花がひとつ、こぼれた。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
新キャラも登場し、新旧の登場人物たちが織りなす毒と薬の物語を今後ともお楽しみいただければ幸甚です。