2‐55毒こそが僕だ
すみません、投稿遅刻しました……!
鶏鳴の正刻(午前二時)後宮も眠る時刻だ。
春の宮の一郭にはまだ、燈火がともっていた。
桃李紗の宮だ。
李紗は額に濡れた布を乗せて眠っている。呼吸が荒い。
熱にうかされる彼女に寄り添い、額の布を取り替えているのは李紗つきの宦官である卦狼だ。剽悍な顔だちをしているが、酷い火傷の痕がある。頬は焼けおちたのか、左側の口端から耳までが裂けて狗を想わせた。日中は傷を隠すため、仮面をつけているが、いまは外している。
「媛さん」
卦狼は武骨な指で、李紗の頬に張りついた髪を掃いのける。そのなにげない手振りからも李紗にたいする穏やかな情愛が滲んでいた。
李紗が熱をだしたのは黄昏を過ぎたころだった。李紗は病弱で時々こういうことがある。朝まで続くようならば後宮食医に診察を依頼しようときめて、卦狼はぬるくなった水桶を抱えて立ちあがる。
窓から風が吹きこんできた。窓は閉めていたはずだ。
警戒して振りかえれば、細身の男が窓に腰かけていた。鴆だ。燈火を映して紫の眼が毒々しく揺らめいた。卦狼はあることを察して、神経を張りつめる。
「皇太子様、じゃねェよな、いまは」
「勘がいいね。……毒師としての貴男に頼みがある」
毒師という言葉に卦狼が眉根を寄せた。
鴆と卦狼はともに窮奇の一族だ。復讐をめぐって剣をかわし、今後毒師として彼に逢うことはないだろうとおもっていた。
「端午までに揃えてほしいものがあるんだよ」
「高慢な貴様が俺なんかに頭をさげるってか? 明日は毒の槍でも降るんじゃねェのか」
「一度頭をさげたくらいですり減るような、易い矜持は持ちあわせていないものでね。この毒を揃えてくれ」
鴆から木簡を投げ渡される。そこには蛇から蜈蚣、蛙にいたるまで、ありとあらゆる毒蟲の名が連なっていた。だが鴆は人毒の禁を破った蟲つかいの毒師だ。蟲ならば彼のほうがはるかに持っているはずだ。
詮索しないほうが身のためだ。それなのに、卦狼は無意識のうちに神経を研ぎすませ、鴆の毒気の異変に感づいてしまった。理解したとたん、冷たい汗が噴きだしてくる。
あれは呪縛のような毒で、解毒はできないはずだ。
なにがあったのかは想像もつかないが、確かなことはひとつだ。
「――――なくなったのか」
「そうだよ」
鴆は異様なほどに落ちついている。
乾いた喉を低く鳴らして、卦狼が嗤った。
「は、よかったじゃねェか。禁毒なんざ、ないほうがいいんだよ。今後はいっさい毒にかかわるな」
卦狼は知っている。鴆という男は毒師の宗家が造りだした蠱毒の壺の底だ。一族の怨嗟や呪詛を一身に受け、生き続けてきた毒念の塊。卦狼からすれば息子ほどの歳なのに、それほどの重荷を課せられた鴆に哀れみがなかったといえば嘘になる。
「毒に妄執するな。同族からの警告だ」
木簡に書きとめられた百種の毒蟲が意するところを察して、投げかえす。鴆は危うげなくそれをつかむ。
「妄執、か。的はずれにも程があるな」
鴆が嗤いながら、紫の眼を鈍くひらめかせる。ああ、毒だ。人毒は損なわれても、鴆から毒が失せることはないのだ。
「あれは僕の毒だ。毒こそが、僕だ」
彼は毒を誇る。
「ひき離せはしないよ」
なぜだろうか。最後の言葉だけは、愛しむような響きを帯びていた。
借り物の怨嗟ではなく、異なる火がいま、鴆を突き動かしている。
「わかったよ。揃えてやる」
李紗を人質に取られたら卦狼は抗えないのに、鴆はそれをしなかった。それだけでも誠意があるという証明になる。
端午までにということは禁毒たる蠱毒を試すつもりだろう。
蠱毒は端午の晩に造る。端午は毒月の毒の日だからだ。
壺に捕らえて喰いあわせ、最後に残った蟲の毒を取りこめば、一種の蟲でも百種の蟲を征服したことになる。もっともそれは毒に克てればの話だ。失敗すれば地獄の苦痛と死を味わうことになる。だが、鴆が敗けることはないだろう。
「お前、変わったな」
帰りぎわ、暗がりに紛れかけた鴆の後ろ姿に声を掛ける。鴆は振りかえらなかったが、最後に垣間見えた横顔は微笑んでいるようだった。
「道連れでもできたか」
恩でも、愛でもない。ともすれば新たな呪縛ともいえるようなものだ。だが、縛られることで解ける呪いもあるだろう。卦狼がそうであるように。
いつのまにか、雨はやんでいた。
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