2‐54「誓うよ」
袖笠雨が降るなか、慧玲は宮廷と後宮を結ぶ橋のたもとで鴆を待っていた。
銀梅花の陰で細かな雨を凌ぐ。枝さきでは真珠のようなつぼみが結びはじめていた。雨季が終わるころに咲くだろうか。
しばらくして、夜雨の帳を破り鴆がやってきた。
「鴆」
繁みから身を乗りだして、慧玲は鴆の袖をひき寄せる。
「っ――――」
物陰に連れこむなり、唇を奪った。
鴆の唾には人毒がある。接吻をするだけで指さきが痺れることもある。だが、昏睡からさめた時にかわした接吻からは毒を感じなかった。
唇が触れあうだけのものだったからか。
あるいは彼の身に異変が起きたのではないか。
確かめるべく舌を絡めたが、まだ、確証を得るには足りない。
慧玲の思惑を察したのか、鴆は息をのんで咄嗟に振りほどこうとする。だが、慧玲はつまさきだって鴆の服をつかみ、喰いさがった。
ひと息にかみつく。
「くっ」
鴆の舌から、血が滲む。
致死毒であるはずの血潮が、慧玲の喉にたらりと落ちてきた。緩やかに飲みくだす。錆臭い味だけが、身のうちにしみわたった。
「おまえ」
赤い唾の糸をひいて、唇を離す。
「毒がなくなったね?」
鴆が眼を見張り、続けて嗤笑するように唇の端を持ちあげた。彼が嘲るように嗤うのは真実をごまかそうとするときのくせだ。
「――――まさか」
秋の季宮で薬物を飲まされた慧玲は、毒を喰らう毒を制御できなくなった。魂を喰い破られかけたときに鴆が助けにきてくれた。
あのとき、なにがあったのかは想いだせない。だが、あの事件を境として鴆の人毒がなくなったのだとすれば、彼の毒を奪ったのは他でもなく――
「私が、喰らってしまったのね?」
真実を理解して、身が震えた。
人毒。それは身のうちで千種の毒を喰いあわせ、調毒する、禁じられた毒だ。鴆がどれほどの地獄を乗り越え、この毒を身につけたのか、まえに彼から聴いたことがある。
慧玲にとっての白澤の叡智と等しいものだ。
それを、彼女が奪った。
「ごめん、なさ――」
言葉にするまでもなく、鴆から接吻をされる。後悔や悔悟の念を言葉にできないよう塞がれて、呼吸まで絶え絶えになったころに解放された。
「……は、そんな言葉は聴きたくないね。言っただろう、僕の毒はあますことなく貴女のものだと」
「そうね、……そうだった」
後悔など、毒にも薬にもならない。惜しみなく毒を捧げてくれた鴆に報いるとするならば、最強の劇薬をかえすべきだ。
濡れた唇をかみ締めて。
「だったら」
慧玲は緑眼をそらさずに鴆を見据える。
「なおのこと、私のために毒を取りもどして」
人毒がなくなっても、おまえはおまえよ。
そうなぐさめるのはたやすかった。だが、違う――それは肯定ではなく否定だ。彼がこれまで重ねてきた一切を、否定することになる。
産まれおちた時から鴆は毒に呪縛され、慧玲は薬に呪われた。だから、いま、ふたりはひとつの地獄にいる。
彼女だけは、彼の毒を否定するわけにはいかなかった。
臆するな。か細くなりそうな声を、意識して張りつめる。
強かな女帝のように慧玲は命令する。
「私を満たせるのはおまえの毒だけよ。私を、飢えさせないで」
鴆がふっと微笑して、跪く。慧玲の脚をつかんで沓から踵を抜かせ、凍えきったつまさきに唇を寄せた。
「誓うよ」
いつだって、そう。
鴆のほうが慧玲に屈服しているようでいて、その実、脚をつかまれて接吻されている慧玲こそが鴆に縛られている。鴆が振りほどけば、慧玲は倒れる。だが、彼は慧玲を離さないだろう。信頼ではなく、もっと強い理解がそこにはある。
絡みあい、結びつき、ほどけない縁だ。
「三ヶ月だ。菊の風が吹くまでには取りかえす」
人毒を身に宿すには十三年掛かる。だが鴆は七歳の時に母親から毒を享け、十七歳の時には完璧に禁毒を修得した。彼が三ヶ月とさだめたならば、破るはずがなかった。
「待つわ」
風が吹きつけてきた。雲がちぎれて微かに月が覗く。
細くて昏い月明かりは、それでも地獄のみちゆきを照らす標のように垂天からひと筋、差していた。






