2‐53鴆に逢いたい
離舎の雨樋は壊れている。
窓のすぐそばで雨が細滝のようになって喧しい音をたてていた。昨年の嵐で軒に取りつけた竹樋が外れて、それきり修理できていなかった。
雨音に掻きけされそうな黄昏(午後八時)の鐘を聴きながら、慧玲は藍星と一緒に離舎で山椒の下処理をしていた。棘のある枝から、若葉と緑の実を摘む。
これを乾燥させて挽くと食欲亢進に効能のある薬味になる。漢方の生薬としては熟した実をつかうが、薬味には若い実のほうが適していた。
「なんとなくですけど」
実と葉を黙々と振り分けながら、藍星がつぶやいた。
「この植物のにおいって、鴆様が喫っておられる煙草に似ていませんか」
「鴆様の煙草ですか?」
慧玲は意外な話題に首を傾げた。
「確かに鴆様の煙草には香檸檬によく似た香りの薬草が調合されていますからね。山椒も柑橘系の植物なので、似て感じるのかもしれません」
「へえ、そうなんですね。えっと、その、時々ですけど、慧玲様からも似たような香がするんですよね」
「そ、そうですか」
思わず手がとまる。こころあたりがあったからだ。紫烟の香が移るほど鴆と一緒にいたことはある。時折だが、抱き締められて眠ったこともあった。
藍星がそわそわとしながら、尋ねてきた。
「慧玲様と鴆様って」
「に、似たような薬のにおいがしみついているだけだとおもいますよ」
ごまかさなくてはならないようなことはないはずなのに、言い訳が口をつく。慌てて作業を再開しかけて、慧玲は山椒の枝にある棘で指を刺してしまった。
「わっ、だいじょうぶですか」
毒はないが、かすり傷でも侮ると破傷風になることもある。包帯を巻きつけた。
「一度休憩してお茶にしませんか? 慧玲様はちょっと、無理をなさりすぎです」
「気を遣わせてしまって、すみません」
藍星には度々負担をかけてしまっている。藍星は「ぜんぜんです」と微笑み「新しい夏妃様からいただいた季めぐりの茶があるんですよ」と茶葉を取りだしてきた。
季めぐりの茶とは後宮行事のひとつだ。春には春の季妃が、夏ならば夏の季妃が、ほかの宮に茶葉を贈る。如月には雪梅が白龍珠という特別な茉莉花茶を各宮に頒布した。
「高級な茶葉ですからね、想いをこめて淹れますよ。あ、慧玲様のお疲れにあわせて、とっておきの漢方を足しましょうか」
「い、いえ、それはだいじょうぶです。貴重な茶葉でしたら、素材の味を楽しんだほうがよいかと」
いつだったか、藍星が最強の健康茶とやらを淹れてくれたことがあった。だが、効能のある食材をごちゃ混ぜにした結果、腐った泥の味になっていた。あとから尋ねたところ、すりおろした大蒜、八角、馬芹、酢、豚脂を、緑茶に混ぜたのだとか。確かに健康によい物ばかりだが、不味すぎて死にかけた。不味いものは毒だ。
「でも鴆様は今後、この後宮をどうなさるんですかね」
匙で茶葉をすくいながら、藍星がつぶやいた。
「どう、と言いますと」
「もっぱらの噂ですよ。後宮の妃妾を総入れ替えにするんじゃないかって。雕皇帝陛下は先帝の後宮をひき継がれましたが、いちから妃妾を集めなおした皇帝も過去にはおられますからね。なんとか残してもらうために鴆様に媚びている妃妾もいるとか」
妃妾たちが競うように着飾っているとはおもっていたが、そんな事情があったとは。
「先程も鴆様をお見掛けしましたが、妃妾たちの取りまきがすさまじかったですよ。怒涛のように鴆様を追いまわしていました」
「鴆様が後宮にきているのですか」
慧玲は思わず、身を乗りだす。
「え、はい、たぶんまだおられるとおもいますけど」
いてもたってもいられなかった。宮廷にいる鴆がいつ、また後宮に渡ってくるかもわからない。確実に逢えるとすれば今だけだ。
逢わなければ。
逢って、確かめなければならないことが、ある。
「すぐに帰りますから」
幸いなことに雨脚は弱まってきていた。すでに袖で凌げるほどだ。提燈だけを持ち、慧玲は飛びだしていった。
離舎に残された藍星は盆に乗せた茶を眺めて、ぼうぜんとなる。
「え、ええ……いま、淹れたばかりなんですけど」
茶は馥郁たる香を漂わせている。さすがは高級な茶葉だけあった。だが、さめてしまったら風味が落ちるだろう。
藍星がぽつりとつぶやいた。
「……もったいないから、飲も」
お読みいただきまして、ありがとうございます。
鴆から慧玲にたいする愛が重かった後宮食医の薬膳帖ですが、段々と慧玲から鴆にたいする想いも唯一無二のものになっていっています。
引き続き、ふたりの恋愛模様をお楽しみいただければ幸甚です。






