17 毒を喰らい、薬と為す
あまくないキスシーンがあります。殺し愛が好きな作者の性癖です。
後宮の端れには、藪知らずと称された竹林がある。
蒼々たる竹林は昼でもうす昏く、妃妾も宦官も近寄らなかった。月影を映して青ざめる竹林に橙の提燈がひとつ、漂っている。慧玲だ。彼女は雪梅嬪の解毒を終えて、離舎に帰るところだった。
彼女に与えられた離舎は四季の宮から約一里離れた丑寅の方角にある。もとは心を壊した皇后や妃を離隔するために建てられた隠れ宮だったという。先帝は処刑される二年前から妻である皇后と慧玲を離舎に監禁するようになった。
(私にとっては、馴染んだ処だ)
一陣の風が渡り、竹の葉が漣のように騒いだ。慧玲がふわりとすそを拡げて、後ろを振りかえる。彼女は暗がりに視線を投げかけ、柔らかく微笑みかけた。
「いつまで、隠れているつもりですか、風水師」
一瞬の沈黙を経て、群青の陰が破られた。
篠笹を踏んで黒絹の漢服を纏った男が現れる。鴆だ。肩を竦めながら、彼は不敵に微笑みかえしてきた。
「素晴らしい宴だったね。妃嬪たちも大絶賛だったじゃないか」
「あなたには御礼をいわなければ。希少な毒を分けてくださったのですから。おかげさまで患者を助けることができました」
頭をさげれば、鴆は微かに眉の端をはねあげた。
「気がついていたのか」
「水銀蜂の蜂蜜は銀食器でも検知できない特殊な毒です。水樒の香も素人には八角と見分けがつかない。よほどに毒の知識があり、日頃から毒を扱いなれていなければ想いつきもしない毒の組みあわせです」
彼が風水の知識を備えているのは事実だ。
だが彼の本業は、他にある。
「あなた《毒師》の暗殺者ですね」
鴆は微笑を崩すこともなく、双眸だけを鈍くとがらせた。劇毒をはらんで、眼睛がぞわりと紫に濁る。
「蔡 慧玲を殺せ――それが僕の請けた依頼だ」
察しは、ついていた。
慧玲は唇の端を硬くひき結ぶ。いまさら絶望することなど、なにひとつない、とみずからに言いきかせるように。
「暗殺ではなく、貴女が失脚して公に処刑されることが依頼者の所望だった。だから宴に毒を紛れこませたんだ。皇后や妃嬪を毒殺したとなれば史書に残る大罪人になるからね」
千年後まで汚名を被せ続けようという、凄まじい悪意を感じる。
その依頼者というのは九分九厘、左丞相だろう。皇后や妃嬪の暗殺まで策謀の一部だったとなれば、左丞相の娘でも皇帝に差しだし、皇后にする魂胆だったか。
「あんたは毒を見抜いていた。それなのに告発せず、あろうことかその毒を宴の盆に載せたわけだ」
意外だったよと、彼はさも楽しげにいった。
「嬪ひとりを解毒するために妃嬪や皇后にまで、致死毒を飲ませるなんてね。まともな神経ではそんなことはできない。あんたにとっても、賭けだったはずだ」
患者に適した毒をのませ、薬と為すのはさほど難しくない。だが、健康なものに毒を投与するのは危険をともなう。
「さきほどからずいぶんと雄弁ですが、よいのですか」
暗殺者が依頼について喋るのは禁戒だろう。喉をならすように鴆は、笑った。
「いいんだよ。……死者は、秘密を洩らさないからね」
鞘から抜きはなたれた殺意が、肌に突き刺さる。
鴆は笹を踏んで、緩やかに近寄ってきた。腕が伸びてくる。身動きひとつできないうちに指がひたりと喉に触れた。呼吸を絶たれば、大抵の生き物は命が絶える。彼女はいま、言葉どおり、息の根を握られている。
「依頼者はひどく御立腹だ。薬を毒に替えられないのならば、その命だけでも絶てといわれた」
「そう、ですか」
慧玲は鴆の腕を振りほどこうともせず、静かに睫毛をふせた。
「ずいぶんと諦めがいいんだね」
頚筋にぎりぎりと、爪が喰いこんでいく。肌が破れ、血潮が垂れた。彼は試しているのだ。その身に死がせまったとき、彼女がどうするか。
「縋りついて、媚びてみせなよ。あんたも後宮の華なんだろう」
「…………涙をこぼすくらいで助けてくれるのならば、いくらでも」
そんな誘いに乗るものかと、微笑みに棘を織りまぜて慧玲がいいかえす。
「けれど哀れみに訴えかけようが、足許に縋って媚びようが、そんなものは毒にも薬にもならない。あなたは徒華を愛でるような愚者ではないはず――違いますか」
鴆は口の端をつりあげる。喉に絡みついていた指が、するりと緩められた。
「違いないね。無様に命ごいなんかはじめたら、すぐに殺すつもりだったよ」
群雲に月が隠れた。
「それにしても、解せないね」
鴆は姑娘の頬に触れた。喉もとから頬にかけて、ちょうど彼に触れられた肌に微かだが痺れるような熱を感じた。毒が浸みるような灼熱感だ。
「貴女は、薬師というには毒々しい。事実、貴女の調薬はさながら《争い》だ。剣をもって斬り、槌をかざして砕き、踏みつけ、圧制して、毒を屈服させるような――」
医は斯くあるべしという真髄からは、遠くかけ離れた言の葉の群だ。だが慧玲は、嫣然と唇を持ちあげた。ぞっとするほどに華やかに。
「それの、なにが解せないの」
瞬きをひとつ、帳を解くように慧玲の瞳が透きとおった。
「毒を喰らい、薬と為す。他ならぬそれが私よ」
毒を喰うか、毒に喰われるか。
彼女が師たる母親から教わった医とは命を賭けた争いだった。報復にして征服であり、統制にして、捕食だった。
「なぜ、皇后にまで致死の毒を飲ませたのか。教えてあげましょうか――おまえの毒にかならず、勝つとおもったからよ」
終始綻びなく繕われていた鴆の微笑が、崩れた。
だが、侮辱にたいする怒りは、一瞬だった。それを凌ぐ享楽が、眸の底で燃えあがる。鴆は堪らないとばかりに口の端をゆがませた。
「へえ、だったら、試してみようか」
強引に顎をつかまれ、ひき寄せられた。
唇に熱のない火が燈る。
「っ……ふ」
息を奪われ、唾がまざった。
接吻をされているのだと理解して突きとばそうとするが、振りあげた腕をつかまれ、抵抗できなかった。触れあった舌に鈍い痺れがある――毒だ。
慧玲が瞳を見張ったのがさきか、鴆のほうから身を退いた。
「さあ、これはどうかな」
ずるり、ずるり……身のうちに蛇が侵入していくような身震いのする感触。腕にぞわりと紫の毒紋が浮かびあがり、慧玲は息をのむ。
絡みつく縄を想わせる紋様だ。
ただの毒ではないことはあきらかだった。