2‐49薬の帰還
唇に毒の香が、触れた。
離舎に充満する薬のにおいを退けて、鴆という男に浸みついた毒が馨る。蜘蛛の糸をよすがにして、慧玲の意識は夢の底からもどってきた。
「鴆」
眼に映ったのは紫の双眸だ。
酷く歪み、言葉にできないほどに荒んだ孤独感を滲ませていた。
「夢をみていたの」
眠りすぎて、いまだに痺れている腕を持ちあげ、慧玲は鴆の髪を梳いた。艶やかな髪は夜蜘蛛の紡いだ糸を連想させる。姑娘の身を絡めとるように垂れていた。
「幸せな夢だったか」
「そうね、でも……」
鴆の髪をつかみ、ひき寄せる。鴆に慧玲から唇を重ねた。
触れるだけの接吻。だが彼女から接吻をするとは想像だにしていなかったのか、鴆が戸惑いを覗かせる。
「あの夢のなかにはおまえがいなかったから」
鴆はたまらなく愛しそうに眼を細めて、再びに唇を寄せてきた。だが、接吻する暇もなく、背後で声があがった。
「慧玲様!」
藍星が抱えていた篭を放り捨てて、かけ寄ってきた。
猪のようないきおいだ。鴆はやれやれとあきれながらも身を退く。藍星が号泣して臥榻に乗りあげてきた。
「慧玲様、よかった、よかったああぁぁ」
藍星の服からは薬のにおいがした。
そうか、藍星は約束を果たしてくれたのだ。
「私が倒れているあいだ、ずっと、頑張ってくれていたのですね。ありがとうございます。藍星、あなたならばできるとおもっていましたよ」
「うわあぁぁあん、慧玲様ああぁ」
藍星は洟をすすりながら、慧玲に抱きつき、額を埋めた。
離舎まで見舞いにきたらしい雪梅、小鈴、李紗と卦狼が、後から続く。
「まったくこの姑娘は心配ばかり掛けるんだから。わざわざこんな遠いところまできて損をしたわ」
「雪梅様、涙が」
「泣いてなんかいないわ」
「ですが」
「泣いていないっていっているでしょう」
雪梅が意地を張るので、小鈴は苦笑する。李紗は涙がとまらなくなって、卦狼がその震える肩を抱き寄せてなだめていた。慧玲の身を案じて、生還を喜んでくれるひとたちがいる。
「……どんな夢だって、現実ほどに幸せではないもの」
慧玲はつぶやき、満ちたりて微笑む。
還ってこられてよかった。
鴆はしばらく壁にもたれて様子を眺めていたが、綻ぶように微笑んで背をむけた。彼らしくもない、毒のない微笑だ。
なぜだか、それが慧玲の胸に残る。追いかけたかったが、できなかった。
窓から東風がさやさやと吹きこむ。
緑の芽吹きをうながす、露の風だ。嵐続きの春は終い、じきに雨季がやってくる。毒が盛んになる時期でもある。
だが、憂いはなかった。
いかなる強い毒でも絶つという白澤の誇りから、ではない。
ひとりでは絶てぬ毒であっても、彼女には助けてくれるひとたちがいる。だから、いかなる毒であれ、おそれることはないのだと。
慧玲はいま、強く、それを感じていた。
…………
唇にはまだ、微かな火が燈っていた。
毒を帯びた緑火だ。
鴆は熱の残滓を確かめるように唇をなぞり、喉もとで微笑する。
強かで脆く、敏くて愚かな姑娘。最強の薬にして、その魂には地獄のような毒を飼っている。いびつな壊れものだ。
だから、愛しくてたまらない。
「この僕がここまで惚れるなんてね」
だが、惚れるに値する姑娘だ。この身の毒を残らず、捧げても悔いがないほどに。
笹の葉陰から蛇が姿を現す。紫の鱗を持った毒蛇だ。
「生き延びたのか……おいで」
鴆は指を差しだすが、毒蛇は動かなかった。
蛇は牙を剥き、金色の眼で鴆を睨みつける。
鴆が飼っていた蟲は九割がた死に絶えた。微毒なものだけは残ったが、鴆の命令に順うことはなかった。
人毒を、喰われたからだ。
すでに鴆の身は毒を帯びていない。本能から強い毒に隷従するだけの蟲たちが、鴆のもとに残るはずがなかった。
「だったら、ここでさよならだ」
鴆は低く嗤い、短剣を振りおろす。
特殊な毒のある蛇を後宮に残しておくわけにはいかない。蛇は威嚇していた割には抵抗せず、一撃で頭を貫かれた。
五分の情くらいはあったのか。
髪を掻きあげ、鴆はひとつ、ため息をついた。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
第七部完結まであと残り一話です。ここまでおつきあいいただきまして、御礼申しあげます。コミカライズ版は8月は休載となり、9月に連載再開となります。
今後とも「後宮食医の薬膳帖」をよろしくお願いいたします。