2‐48ゆきどまりの幸福と愛するひとのいる地獄
離舎は今朝も静まりかえっていた。
いつまで経っても、細い煙があがることはない。
紅葉の進んだ竹の葉が風に舞う。後宮は夏にむけて緑のあふれる時季だというのに。鴆は落葉を踏みつけてため息をついた。
離舎のなかは暗く、薬のにおいだけがつんと漂っていた。
鴆は臥榻に寄る。銀髪の姑娘が死んだように眠り続けていた。
七日経っても、慧玲の意識は還ってこなかった。毒を吸いすぎたせいか、それとも胸から華が咲いたせいか。
「さぞや、いい夢をみているんだろうね」
眉根を寄せることなくやすらかな寝息をたて続ける慧玲を覗きこみ、鴆がつぶやく。
「還ってこなければ、あんたは幸せだろう」
臥榻に腰かけて、ほどかれた髪を梳く。昏睡しているかぎり、白澤の証たる笄をその髪に挿すこともない。
重荷をおろすことができる。
「幸せでいたければ、僕がいま、その息の根をとめてあげようか」
喉に指を落とす。絡めるのではなく、触れるだけ。
だが、彼女の睫は死を拒絶するように微か、震える。意識はなくとも、魂はそこにある。ならば聴こえるはずだ。
「だったら、還ってきなよ。ここが貴女の地獄だろう?」
彼女は地獄を進むときめたはずだ。毒と薬、それぞれの魂が渡ってきたふたつの地獄があの時、ひとつになった。
「あんたがいない地獄なんか――」
いっそ、なにもかもを毒してしまおうか。危険な想いが眼睛によぎる。だが、毒は嵐と吹きすさぶことなく、ちぢになった。
「夢のなかでなんか、ひとりになるなよ」
鴆が悔しげにつぶやき、蜘蛛の糸を垂らすように身をかがめる。
青ざめた唇に接吻を落とす。
「僕を、ひとりにするな」
◇
昏睡する慧玲は夢をみていた。
「慧玲」
声を掛けられて視線をあげれば、慧玲の母親がいた。
死んだ時と変わらず、結いあげた髪に孔雀の笄を挿して、男物とも取れる襦を身につけている。
「母様?」
母親の夢をみるときはきまって、うなされる。また怨みごとを投げつけられるのではないかと咄嗟に身を強張らせたが、母親は怨嗟を滾らせた眼ではなく、愛しむような眼差しをそそいできた。
「どうしたのですか、ぼうっとして」
母親が身をかがめていることに違和感をおぼえた。いつのまにか、慧玲の背が縮んでいる。八歳前後の姿になっていた。
「あ……ごめんなさい」
「あやまることはないですよ。疲れているのでしょう?」
頭をなでられる。
「よく頑張っていますね」
これまで母親からそんな言葉を掛けられたことはなかった。眠らずに調薬を続けた時も、凍りついた海に落ちた時だって。
ひたすらに戸惑っていると、厚みのある声がした。
「そなたには苛酷なる宿命ばかりを負わせてしまったな。愛しいひとり姑娘だというのに。すまない」
むかい側には父親たる索盟先帝がすわっていた。壊れていた時の剣呑さはなく、何処までも穏やかだ。
「そのような」
慧玲が袖をあげ、低頭する。索盟はこまったように苦笑した。
「畏まるでない。いまは家族としてともに食卓をかこんでいるのだから」
そこまでいわれてはじめて、食卓についているのだと気がついた。
食卓にはあふれんばかりに薬膳がならべられている。とろとろに煮こまれた参鶏湯があり、根菜を練りこんだ焼売、海老に細い麺を絡めて揚げたものまであった。窓からは日が差して食卓を暖かく照らしている。
ぐうとお腹が鳴いて、慧玲は頬を紅潮させた。
「あ……」
「ふふふ、可愛らしいこと」
お腹が減っていた。空腹を感じるなんて、いつぶりだろうか。
想いかえせば、この頃は患者に薬膳をつくるばかりで、落ちついて食事を取ったことはなかった。
「おまえのために薬膳をつくったのですよ。好きなだけ、食べなさい」
慧玲は幼い頃から母親の薬膳が好きだった。
彼女の薬膳は強かった。万毒を退け、未病の憂いをも絶つ浄火のような薬だ。だが、食せば暖かく、抱擁感に満ちていた。
慧玲はうながされ、嬉々として匙をとる。
食事を取るまえにあらためて食卓を眺める。父親がいて、母親がいて、微笑みながらともに時を過ごしている。
理想の幸福だ。
時々、考えることは、あった。父親が壊れず母親が命を絶たず、毒を知ることもなく薬だけを造り続けることができていたならば、どれほど幸せだっただろうかと。
「これまで、つらかったですね。これからは頑張らなくていいのですよ」
語りかけてきた声はやわらかく、いたわりに満ちていた。
知らず、涙腺が弛む。
「母様」
だから理解してしまう。
これはゆきどまりの夢だと。
夢に留まるかぎり、彼女はひとりぼっちだ。
窓から風が吹きこみ、微かに香が漂ってきた。いつからか、愛しいと想うようになった毒の馨りだ。
「いただけません、母様、父様」
静かに匙をおいた。
毒を喰らわなければ、知ることのできなかった幸福がある。傷つき、傷つけて、つかんだものがある。進まなければ、助けられないものがある。
夢のなかにいては、逢えないひとがいる。
「私は、まだ」
母親が唇をかみ締め、なにかをいいたげにする。
だが、索盟は「そうか」と息をついた。
「還りますね」
慧玲は食卓の倚子をたち、振りかえらずに進んでいく。
進むほどに窓が減って日差しが陰る。だが、臆することはなにひとつなかった。毒の馨りが導いてくれる、彼女の愛する地獄まで。
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