2‐47後宮食医つきの女官
離舎の窓から朝の日が差す。
暖かな日差しが眠り続ける姑娘の瞼に触れて、白霜の睫を透かす。だが、姑娘は浅く呼吸を繰りかえすばかりで、起きることはなかった。
「慧玲様……」
藍星は涙をこぼして、慧玲の側に寄りそう。
秋の季宮の事件から三日経った。鴆に連れられて季宮から帰ってきた慧玲はあれきり、意識を取りもどさない。
「なにがあったんですか。どうして、こんな」
秋の季宮でなにがあったのか、藍星は報されていない。
藍星はすがりつくように慧玲の手を握り締めた。脈は落ちついている。だが慧玲の手は傷つき、荒れて、ぼろぼろだった。いつだってそう。それは薬を造る指だ。
「薬……そう、ですよね」
藍星は唇をひき結んで、指をほどいた。星のほくろを濡らす涙を、女官服の袖で拭きとる。ついでに頬をたたいて、喝をいれた。
いまだって、まだ、患者はいるのだ。
季宮の地下室から救助された患者たちはなぜか解毒が終わっていたが衰弱しており、薬膳で心身を補わなければすぐにでも死にかねなかった。
藍星は慧玲から託されたのだ。患者を、命を。
「調薬、続けます」
慧玲が帰ってくるまで、私が頑張らないと。
強い眼差しになった藍星が離舎を後にする。風が窓から吹きこんで、枕もとにおかれた孔雀の笄が微かに揺れた。
…………
鶏鳴(午前二時)の鐘が鳴った。
宮廷から燈火が絶えることはないが、殿舎は時々見張りの衛官が通るだけで静まりかえっていた。莟をふくらませた杜若だけが、中庭のうす暗がりにならんでたたずんでいる。
「鶏鳴かぁ。朝から晩まで取り調べばっか、疲れたなあ」
ぼやきながら、廻廊を渡ってきた男がいた。
竜劉だ。先ほど事情聴取が終わったところだった。正確には明朝に続きを、とうながされて解放された。
「程よく剣が振れて楽ちんな職だとおもっていたんだけどなあ……ん? なんか、うまそうなにおいが」
腹が減っていたのもあり、劉は食事の香りに惹かれて寄り道をする。
香りは宮廷の庖房から漂ってきていた。
「こんな時刻に?」
宴会の時は早朝から支度をすることもあるが、大抵は平旦(午前四時)からだ。窓から覗けば、髪をふたつにまるめて結わえた姑娘がひとり、まな板にむかっていた。
明藍星だ。
「女は根性、女は根性」
藍星はお経のようなものを唱えて、精神統一をはかっている。
「えいやあぁぁ」
奇声をあげて、藍星は庖丁を振りおろす。
押さえつけていたすっぽんの頭を、いっきに落とした。
「ふふっん、どんなものですか。私だって、やればできるんですよ!」
盛大なひとりごとだ。そこまではよかった。だが、勝利を確信して神経が弛んだせいか、切断したすっぽんの頭にがぶっとかみつかれた。
「ぎっやああぁ、やめてぇかまないでぇぇ」
藍星はべそをかきながら、腕を振って、すっぽんを振りはらった。幸い大事にはならなかったが、気分はだださがっている。
「ええっと、確か、まずは甲羅のふちに庖丁をいれて、まわしながらこう、剥がして」
頑張って下処理を進めていく。喧しい割に藍星は手際がよかった。庖丁ではないが、同様に刃物を扱うものとして彼女の動きには眼を見張るものがある。
「いやあ、たいしたもんですねぇ」
拍手をしながら声をかければ、藍星は「にゃわわっ」と声をあげて肩を跳ねあげた。庖房に入ってきた劉を振りかえり、眼をまるくする。
「食医様についてまわってるだけのおまけみたいなもんだとおもってましたけど、すごいじゃないですか」
彼なりの遠慮のない言葉で褒めれば、藍星はふふんと胸を張った。
「そうでしょう、なにせ、私は慧玲様の――」
声をつまらせて、藍星は瞳を潤ませた。万感の想いがよぎる。だが、感傷は振りほどいて、彼女は晴れわたる青空みたいに笑った。
「後宮食医つきの女官なんですからねっ」
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