2‐45死を選ぶ
後宮の毒疫患者の連続死について調査していた鴆が、宮廷官巫の罪を摘発したことによって、宮廷は混乱の坩堝となった。
女官全員を捕縛して調査を進めるという強硬手段は、元老院を筆頭として宮廷から猛反発を受けた。だが、宮廷官巫の季宮から押収された粥から麦角菌が検出され、事態は急転する。
麦角菌の危険性は、宮廷でも周知の事実だ。
さらには季宮から薬物の製造につかわれていた器材が見つかった。
そればかりか、地下室からは麦角中毒で脚や腕が壊死した患者が保護されて、ついに事件の全貌が白日のもとにさらされた。
後宮の毒疫患者に麻薬効果のある毒を振りまいたのは宮廷官巫であり、秋妃たる月静であるという事実が立証されたのだ。
これには元老院も官巫をかばいきれず、以後は沈黙に徹している。
…………
風が吹きつけるなか、静は鵲をかたどる黄金の橋にたたずんでいた。
事件後、静は心神を喪失した。
毒疫患者を毒殺し、女官に薬物を投与したという罪で静は捕縛されたが、いかに尋問しても放心し続けている彼女をみかねて、監禁処分ということになった。
前提事実として、静には幼少期から先妃に薬物を盛られて操られていた。彼女もまた被害者だ。女官も同様で、彼女らは完全に被害者扱いとなった。ひとまずは秋の季宮で療養させられているが、薬物がなくなったことで錯乱し朝から晩まで泣き続けていた。
解毒はできても中毒を克服するまでには時間がかかる。
静には監視がついていたが、食事も取れないほど衰弱した静が抜けだすとは誰も考えておらず、段々と杜撰な監視になっていた。
静はそんな監視の隙をつき、平旦の終(午前五時)に窓から抜けだした。
鵲の橋は秋宮の舞台にかかっており、三階建てほどの高さがある。静は飾りたてられた橋の欄干を跨いだ。
「これいじょう、ここにいたくない」
静はみずから命を絶とうとしていた。
これまで忘れることができていた家族の死を想いだしてしまったからだ。
彼女の家族は農民から徴税する税吏という役人だった。税吏のなかには過度な税を巻きあげて横領するものがいるが、静の親は汚職など考えたこともなかった。だが、先帝の時期は凶作が続いても皇帝に報告されることはなく、民に酷税が課される事態が相ついでいた。
滾る怨嗟は農民を賊に変えた。
税吏にたいする逆怨みから賊は静の家族を惨殺した。
腹を裂かれたふたりの兄の息絶え絶えな姿が。農具の柄で串刺しにされた母親の死に様が。静が賊に強いられたおぞましいことが。
頭のなかで溢れかえる。
「たえられない……でも、死んだら、つらいことはなくなるもの」
東から夜の帳がほどけて、朝がすぐそこまできていた。
捕まるまえに逝かなければ。
風が誘うように橋の底から吹きあがった。あとはちからを抜いて身を投げだせば、逝ける。なのに、どうしてか。
静はあとひとつ、踏みだすことができなかった。
こんなにつらいのに。
「生き残って、あなただけは――」
声が聴こえた。
これまで天候を教え、静を導いてくれた神様の声ではない。彼女を助け、育ててくれたお母様の声でもなかった。だが、懐かしい声だ。
そうか、この声は彼女を産んでくれた母親のものだ。想いだしたのがさきか、家族の声が続々とよみがえってきた。
「妹だけは助けてください」
「私たちはどうなっても構いません、どうかこの姑娘だけは」
家族は息絶えるその時まで懇願を続けた。賊に斬りきざまれ、殴られ続けながら。
静が殺されずに済んだのは賊の気紛れなどではなかったのだ。この命は家族の愛に助けられたものだった。
死に瀕した母親は静の頬をつつみ、最後にささやきかけた。
「これから先、どれだけつらいことがあっても。命があるかぎり、いつかは幸せになれるから。だから、希望を、捨てないで――――」
静の青ざめた頬に涙がつたう。凍結していた感情が雪融けるように涙はひとつ、またひとつと風に舞った。
「静様!」
不意に後ろから抱き寄せられた。
「どうか、逝かないでください、静様!」
「こんなにつらいのに、静様までいなくなったら、私たち、どうしたら」
女官たちがいつのまにか、静を取りまいていた。抜けだしたところをみたものがいたのだろうか。
腰を抱き寄せられ、腕を引っ張られて、橋の中側に連れもどされる。
「静様、あれからつらいんです、つらくてつらくて」
「でも、静様がいなくなるほうが、ずっとつらいよおぉ」
「静様だけが、助けてくれたんだもの」
静が身を縮ませ、震えあがる。たえられないほどの良心の呵責があった。なかば、悲鳴のように彼女はつぶやく。
「助けてなんか、いない!」
「そんなこと」
「だって、あれは」
喉がつまる。
認めるのはこわかった。認めたら最後、お母様からもらった幸福も救済も嘘になってしまうから。
だが、すでに幸せな夢は壊れて、静の眼は現実を映していた。だからこそ、彼女はしばらく心神喪失したのだ。特に地下室から救助されたものたちの壊死した身体を視たとき、静は絶望した。なんて取りかえしのつかないことをしてしまったのかと。
慙愧にたえず、静は声を嗄らして言いきる。
「あれは毒だった! 私は、あなたたちを助けられてなかった! ごめんなさい……ごめんなさいっ」
怨まれるに違いない。橋からたたき落とされても、あまんじて受けいれるだけの決意をもって、静は罪を認めた。
「違うんです、静様」
だが、女官たちは静を責めるどころか、彼女を抱き締めて訴えた。
「薬をくれたから、じゃないんです。私たちの幸せを願ってくれたのは静様だけだったんです。私たちはちゃんと、救われていた。救われていたんですよ」
静が眼を見張り、ぼたぼたと涙をあふれさせた。もはや、なにひとつ、言葉にはならなかった。
静は女官たちと抱きあい、泣き続ける。
風が吹いた。咲き残っていた八重桜が散る。咲いたかぎり、花は散り逝く。だが、それは春にまた咲き誇るためだ。
時が経てば、また幸福の莟は綻ぶ。
命あるかぎり、幾度でも。
お読みいただき、ありがとうございます。
まもなく第七部が完結となります。お楽しみいただけているでしょうか?
今後とも「後宮食医の薬膳帖」をよろしくお願いいたします。