16 梅とむらい
「私は、士族の三女として生を享けたわ」
ほつほつと梅のこぼれるように雪梅嬪は語り始めた。
「蝶よ、華よ、と育てられた。士族の姑娘など、産まれながらに貢ぎ物だもの。それはそれは大事に扱うわ。瑕疵ひとつ、つかぬように」
唇をかみ締めてはまた緩ませ、彼女は「だから」と続けた。
「いまさら恋になんか、落ちるとは想わなかった」
私は、莟でありたかったのよ、と雪梅はこぼす。
咲かぬ、ゆえに散らず。
想わせぶりに芳烈な馨りだけを振りまいて、いつ咲き誇るのかと望まれてやまぬ《華》になりたかった。そうでなければならなかったのだ。
それでも、綻ばぬ莟がないように。
彼女の春は明けそめた。
「殷春と想いを通わせてから暫くして、陛下の御渡りがあったわ。夢のようだった。ほんとうよ。だってそうでしょう。私は、そのためだけに育てあげられたのだから。優雅な舞も、磨きあげた美貌も、すべては陛下のご寵愛を賜るため。なのに、陛下に触れられたとき、肌が凍った」
霜にあたれば、花は凋む。
けれども、硬い莟ならば、堪えられたはずの寒さだった。
「恋など、しなければ」
悔やんでも、綻んでしまった葩は莟には戻れなかった。
妃嬪と宦官は結ばれない。まして、皇帝の寵妃となってしまっては。ゆえにふたりは、死後に望みを託したのだ。
「朔の晩に逢いましょうと約束したのよ。春の庭で最も麗しき梅のたもとで、と」
慧玲は想像する。
星のあかりだけを頼りに、宮を抜けだして梅のもとにむかう雪梅嬪の後ろ姿を。
死に逝くときにも彼女は唇に紅を乗せ、髪を艶やかに結いあげて、紅繻子の襦裙に帯を締めるのだろう。舞台にあがるときとなにひとつ違わぬ華やかさで。
後悔が、ないといえば、嘘になるはずだ。全てを裏切ることになる。一族。親姉兄。寵愛。権力。財。名誉。富。位。命。なにかもを投げだしても、彼女は愛したかった。愛されたかったのだ。
「梅が、しな垂れるほどに咲き誇っていたわ。夜陰を透かして、紺青に視えた。月もなかったものだから。それでも、香りだけは噎せかえるほどに馨しくて」
如月の宵は凍れる。かじかんだ指に息を吹きかけ、雪梅はどれだけ俟っただろうか。花散らしの風に髪の紊れを気にかけつつ。
「けれど、あのひとは、こなかった」
咲き群れる梅にひとつふたつと指を折り、時を過ごしたに違いない。
「朝まで俟ち続けたわ。しらじらと東雲が緩みはじめて、想ったの。ああ、彼の愛は、綺麗なばかりの嘘だったんだと」
「ですが、そうではなかった――哀しいことに」
慧玲がようやっと唇を割った。
「殷春というその御方もまた、他の梅のたもとで俟ち続け、遂には嘆いて命を絶った。強い未練を残した死は地毒をもたらします。彼の流した血潮が土に浸み、梅の根がそれを吸いあげ、毒に転じた。それが雪梅様を侵す毒の素姓でした」
血の毒は《金の毒》に属す。つまり《木の毒》を絶つための《金の薬》は《金の毒》に相殺されてしまい、効能が鈍るのだ。よって解毒するにはまず、死穢を浄めなければならなかった。
水銀蜂は言葉どおり、水銀と同様の毒を持つ。
現在では水銀が猛毒であることも解っているが、百年も時をさかのぼれば水銀は不老不死の霊薬とされており、権力者たちが競うように飲んでは命を落としたという。遺骸に水銀を施すと幾百年も崩れることなく維持することができる。そこから不老不死という俗信に繋がったのだろうと語られていた。
(けれど、白澤の叡智をもちいれば、水銀から不老の薬を創ることはできる。つまり水銀の毒も薬に転ずるのだ)
水銀は《陽の猛毒》だ。巧く扱えば、強い死穢の毒に克つ薬となる。だが蜂蜜に雑ざる水銀毒は微量だ。
故に花蜜は水樒でなければならない。
水樒は有毒の植物だが、その芳香が邪を遠ざけるとされ、葉が葬儀の棺に敷きつめられることがある。
(ただ、花は毒が強すぎて、都に持ちこむだけでも縄をかけられる。もちろん、植えることも禁じられている)
だが《陰の毒》を遠ざけるのにこれほどふさわしいものはない。
《陰の毒》を解毒したら、最後に《火の薬》を投与する。死を荼毘にふすように火をもって《金の毒》と《木の毒》を克すのだ。
「そんな……ありえないわ」
最愛の人がその身を毒したなど受けいれがたいのか、雪梅嬪は頭を横に振った。
「地毒に障れなければ毒疫にかかることはないはずよ。私はあの後も梅のもとを訪れたわ。けれども、彼が命を絶った梅と私の俟ち続けていた梅は違う。彼の死の毒に障れるはずはないのよ」
「それは……」
如何なる経緯で雪梅嬪が毒に触れたのかは慧玲自身も不可解だったため、言いよどむ。
そのとき、一頭の蝶が窓の飾り格子をすり抜けてきた。魄蝶だ。
房室に残った梅の余薫に惹かれたのだろう。雪梅嬪に咲き群れていた紅梅は、香りこそ馨しくも本質は血の梅だった。ゆえにこの毒の蝶が惹かれたのだ。
(そうか。蝶だったのか)
死者の魂を運ぶ蝶――言いえて、妙だ。
「蝶です。蝶が離れていた双つの梅を繋ぎ、地毒をも媒介したのです」
蝶は梅が散ったことを惜しむようにあたりを飛びまわる。
解らないことといえば、もうひとつ、ある。
「畏れながら……この庭に梅は、幾百とあります。なぜ、そのように大事な待ちあわせに梅を選んだのですか」
「間違えるはずはないとおもったのよ。八重の紅梅はひとつだけだもの」
雪梅嬪はきまって紅の絹を纏っていた。彼女と梅を重ねあわせたならば、かならず八重の紅梅で俟つはずだと。
だが、そうではなかった。
なぜか。
想いかえす。雪梅嬪が最後に舞ったとき、こぼれ落ちたのは白梅。つまり、血を吸って紅になったが、もとは――ああと理解が落ちてきた。
「彼はあなたさまの姿ではなく、御心に、梅をみたのではありませんか」
艶やかな舞姫ではなく。
雪のように清らかなその華を愛したのだ。
雪梅嬪が瞳をまるくした。鏡のような眼縁から、とめどなく涙が溢れだす。頬紅を崩して、彼女はわあと泣き崩れる。
ひと際強い春の風が窓から吹きこんできた。
房室に桜の葩が舞いしきる。いや、違う。光を拡散する瞬き――魄蝶の群だ。蝶が乱舞する。
雪梅嬪が不意に息をのみ、泣き濡れた瞳をあげた。
「……殷春」
とっさに慧玲が振りかえったが、そこにはただ、蝶の群がいるのみだ。
蝶の群は戸の隙を抜け、廻廊にむかう。雪梅嬪は愛しいひとを呼びながら、蝶の後を追い掛けていった。
薬による幻視――という言葉が慧玲の頭を過ぎる。樒をもちいた薬は強い。どれだけ完璧に調えても、譫妄がひき起こされる危険があった。
「御待ちください、雪梅嬪!」
慧玲が追い掛けるが、雪梅嬪は振りかえりもしない。
外はすでに日が暮れ、吊灯籠がほつほつと燃えていた。雪梅嬪は階段を降りて暗い庭を進み、赤い反橋を渡る。走り続けながら橋の対岸に視線をむけた慧玲は一瞬、みずからの眼を疑った。
「梅……が」
散ったはずの梅が、しらじらと咲き誇っていた。
八重の白梅だ。潤むような光を帯びて、宵の昏がりに浮かびあがっている。満ちる花の重さに枝垂れた梅枝がさらさらと風に舞っていた。
慧玲が息を洩らす。
「ああ、……蝶、なのね」
月を帯びた魄蝶の群が、梅にまつろっていた。幾百、いや幾千か。枝も葉も埋めて、いまだ梅の季節と欺くように群れている。
梅のたもとにたどりついた雪梅嬪は、崩れるように根かたで膝をついた。
「殷春……ねえ、聴いて」
息をきらして、彼女は呼び掛けた。さも、そこに愛しいひとがいるかのように。
「私はあの晩、ほんとうに貴男と逝くつもりだったのよ。愛していたの、いまだって愛しているわ……恨めしいほどに」
死んだ殷春ではなく残された雪梅嬪こそが、恨みという言の葉を紡ぐ。
梅が浪だつようにそよいだ。
「でも、私は、もう逝けないわ」
自身の下腹に触れて雪梅嬪はいった。胎のなかに脈打つものがある。新しい命だ。彼女が誰を欺いても、護りたいと望むものだ。
だからと彼女は続けた。
「貴男は、私を、恨んでもいい。けれどもどうか、これだけは誓わせて」
雪梅は涙を堪えながら、自身の髪に挿していた簪を抜いた。解けた髪がさらさらと春風になびいて、拡がる。番になった双つの簪を握り締めて、彼女は逝くひとに最後の言の華をたむける。
「私の恋は今生で貴男だけよ」
ひと際強い風が吹きつけて、蝶が一斉に舞いあがった。
春の吹雪だ。舞いみだれる蝶のただなかに一瞬だけ、男の影が過ぎる。慧玲の瞳にも人影は確かに映った。輪郭は暈けていたが、微笑んでいるのだということだけは、何故かはっきりと解る。
愛する女の幸福を祈るように。
春は、逝く。珮後の香を微かに残して。
雪梅嬪は愛する人の残り香を抱き締めるように梅のたもとで泣き続けた。
涙はつきるものだ。散らぬ花がないように。されども胸に秘めた華は散らない。秘が秘であるかぎり、華は華であり続けられるのだ。
愛は久遠に散らさじ。
いつか、橋のむこうで再逢うそのときまで。
ここまでお読みいただき、御礼申しあげます。
花の毒は解け、ここから第一部のクライマックスにむかいます。






