2‐36すっぽん薬膳鍋
万物は陰を負いて陽を抱く。白澤の基礎理念にもなっている旧い言葉だ。
あらゆるものは陰と陽からなり、順に盛衰を繰りかえす。冬は陰が強くなり、夏には陽が克つように循環を続けることで中庸を維持している。
神経伝達も同様だ。覚醒時は交感神経が優位になるため、意識が明瞭となり臓器や器官の働きが盛んになる。緊張や昂奮を瞬時に感じることで、集中力や運動能力を発揮できるが、続くと疲弊して不調をきたす。だから睡眠時には副交感神経に切り替り、器官を休ませ、回復や消化吸収を促進させる。
この循環があって、人は健全でいられるのだ。
調薬の支度を終えたところで藍星が離舎に帰ってきた。離舎の庖房は手狭だが、慣れているので動きやすい。重ねて離舎には白澤が蒐集した貴重な薬種がまだ残っている。
「麦角は陽土の毒でしたね。陽の毒というと、昨年冬宮で患者が続出した人を酔わせる桜の毒と一緒ですよね。あの時は陽に陽をぶつけて解毒したと思うんですけど」
「そうですね。ただ、この度は患者がきわめて衰弱しています。相殺は体力が充実している患者にのみ試せる解毒の手順です。負担をかけずに中庸に還すには陰を補います。となれば、こちらの食材です」
慧玲はどんと、まな板に食材をおいた。
「か、亀ですか」
甲羅のついた特大の亀だ。ひっくりかえして伸びきった首根っこを慧玲が抑えこんでいるが、ばたばたともがいている。
「すっぽんです」
「ぎゃああっ、かみついたら雷が落ちるまで離さないってやつじゃないですか! 素手でだいじょうぶなんですか!」
「かまれないよう、ぐっと抑えこみながら洗いますね」
先ほどまで夏宮の池を泳いでいたので、藻が絡みついている。たわしで洗浄してから、ひと息に頭を落とした。
藍星は魂が抜けかけている。
「血潮は補血剤になりますから、残しておきますね」
続けて甲羅のつけ根に庖丁を挿しこむ。きりこみから指をいれて、いっきに甲羅を剥がした。不要なものは捨て、骨を落として切り分ける。
「お湯、沸きましたね」
臭みを取るため、熱湯につけて皮を剥いでから、水にさらす。
「さ、おぼえましたか?」
「……おぼえたとして、やれそうにないんですけど」
だが、さばき終わったところで食肉という認識になったのか、藍星は好奇の眼で覗きこんできた。
「赤身がきれいで、ぷりぷりしていますね」
「ふふ、新鮮ですからね。絶品ですよ、旨みがたっぷりで。ふぐやあんこうに鶏の脂が乗っているような好いとこ取りの味わいです」
想像したのか、藍星が唾をのむ。
「元気が漲るとか若返るとかいう眉唾な噂を聴くんですが、ほんとうですかね」
「すっぽんは大補陰といわれています。言葉通り陰を補う薬なので、陰虚、血虚で衰弱しているものには究極の薬膳です。神経の伝達を改善し神経衰弱、錯乱を抑制します。もちろん、老化を制御する効能もありますよ」
「おおっ、噂通りですね」
「風化は、鉱物などの老化とも捉えられます。よって、老化防止の効能は金毒による風化の抑制にもつながるわけです」
「いいことだらけじゃないですか」
だが、これだけでは麦角の解毒はできないので、特殊な薬種をつかう。慧玲は倉につるしてあった乾物を持ってきた。
「燭陰という蛇の乾物です」
「蛇……亀と蛇って、ものすごい組みあわせですね」
燭陰はただの蛇ではない。雲を渡り火を噴く蛇であり、火禍をもたらすと怖れられていながら地毒を焼き払うことで土壌を浄めるとも語りつがれてきた。寒い地域では聖火として燭陰の火を祭祀する廟がある。
この燭陰は、麦角の毒の緩和に役だつ。
すっぽんの甲羅、燭陰の乾物をつかって、上湯をつくる。続けてすっぽん、生姜をいれて、あくをとりながら煮た。蓋つきの器に移して竜眼、枸杞、松の実、蓮の実、黄耆を加えてから一刻蒸す。
例えようもない芳醇な薫香が漂ってきた。
「調いました、すっぽんの薬膳羹です」
…………
落ちつきのない患者に薬膳を食べさせるのは至難の業だろうと想像していたが、患者たちは羹のかおりを嗅いだとたん、ふらふらと寄ってきた。
蓋をあけると、春霞をまとって黄金の上湯があらわれた。
大陸において武人は剣をもって争うが、庖人は湯をもって競うとされる。湯は食の神髄なのだ。なかでも高級食材の旨みがとけだす上湯は最高級の湯として知られていた。
匙を挿せば、純金の湯からすっぽんが姿を現わした。
「まあ、千歳緑だわ」
「ぷるぷるとしていて、ふぐみたいですね」
女官たちが声をあげた。
緑がかっているのは甲羅の縁にある部分で、亀のえんがわとも称される希少部位だ。竜眼、枸杞といった生薬が上湯を飾りつけるように漂っている。
匙を持つのもおぼつかないので、女官が妃妾の口に匙を運ぶ。
「あむっ、はわあ、おいしい……」
頬がとろけるというが、妃妾は強張っていた全身をだらりと弛緩させた。後ろにいた女官たちにもたれかかり、たったひとくちで夢見心地になっている。
食を進めるほどに妃妾は落ちつき、視線がさだまってきた。
「宴の折にすっぽん料理を振る舞われたことがあるけれども、こんなにおいしいものだったなんて。品のいい御味だから、いくらでも匙が進んでしまうわね」
感想が流暢になって、彼女が理性を取りもどしていることを如実に表していた。
「なんだか、ずっと幸せな夢をみていたようなきもちだわ」
「なにがあったのか、聴かせていただけませんか?」
慧玲が尋ねると妃妾はこまったように眉をさげた。
「いまひとつ想いだせないのよ。竹筒に入った薬をもらったわ。薬を飲んだら、これまでつらかったのが嘘みたいに幸せなきぶんになって」
「どなたから受け取りましたか。宦官、それとも妃妾だったとか」
「わからないわ。姿もみていないし、声が男女どちらだったかも――でも、そうね」
妃妾が幸せな夢をみるようにつぶやいた。
「あれは神様の声だとおもったわ」
それきり、妃妾はことんと眠りに落ちた。藍星がただちに脈を確認して、安堵の息をつく。
「脈も落ちついています。三日三晩、踊り続けてよっぽど疲れておられたのかと。解毒できてよかったですね、慧玲様」
「いえ」
慧玲は表情を曇らせる。
「大変なのはここからです」
毒の働きを抑制し、壊死や精神異常は治療できても、薬物中毒を脱却するには時間がかかる。最低でも三日間は離脱症に苦しむことになるだろう。金毒の諸症状と重なって悲惨なことになるのは想像に難くなかった。
「それでも乗り越えてもらわなければ。どれだけつらくとも悲しくとも。それもまた、命がある証なのだから」
それにしても、神様か。
薬とは神から授かったものではない。先人が創りあげた叡智の結晶だ。神からもらったと思いこんでいるのならば、それは。
どこかに神を騙るものがいるということだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
続きは30日(木曜日)に投稿させていただきます。今後ともよろしくお願いいたします。