2‐30毒の皇子は薬の姑娘を墜としたい
夢もみなかった。
意識を取りもどすと、嗅ぎなれた紫煙の香が漂ってきた。
ああ、側に鴆がいるのか。
離舎で眠っているつもりで睫をほどけば、見知らぬ房室の風景が拡がる。麒麟紋の壁紙に紫檀で統一された調度品、さながら皇帝の居室だ。慧玲が横たわっている臥榻も離舎のものとは似ても似つかない。
「ここはどこ」
「東宮だよ」
彫刻の施された窓に腰かけて、鴆が煙管を吹かしていた。
東宮といえば皇太子の居所だ。風水師から次期皇帝となった鴆に割り振られたのか。
「そう、私は……倒れてしまったのね」
想いだす。
宮廷の患者たちを解毒できて、緊張が弛んだのがよくなかった。だが、後宮にはまだ、患者がいるのだ。
日の角度を確かめる。隅中(午前十時)か。まだ後宮には薬を必要とする患者が残っている。そう眠ってはいられなかった。錘をつけたように鈍い身を無理に起こして、枕もとにおかれた孔雀の笄をひき寄せようとする。
かつんと烟管を盆におき、鴆が苛だちを滲ませた息をついた。
「っ……どういうつもり」
突きとばされて、鴆に組み敷かれた。
振りほどこうにも手首を締めあげられている。
「さあ、なんだとおもう?」
紫の双眸には昏い陰が差していて、なにを考えているのか、読めなかった。
「どいて、おまえにつきあっている暇はないの」
慧玲は躊躇なく蹴りあげようとする。だが、先んじて脚を絡められて、蜘蛛の糸に捕まった蝶がもがく程度の抵抗しかできなかった。
「知っていたかな? あんたが命を賭けて蜃の王に薬膳を振る舞ったとき、僕がなにを考えていたのか」
「私を信頼して――――」
まかせてくれていたのではないかと言いかけて、言葉をのむ。ああ、違う。彼はそんなふうに解かりやすい男ではない。彼は、毒なのだから。
成功するだろうと思ってはいたはずだ。信頼というよりは事実として。
だが、それでもなお、彼が考えたことがあるとすれば。
慧玲が理解したのを察して、鴆は嬉しそうに唇の端を持ちあげる。毒を垂らすように耳もとにささやかけてきた。
「失敗すれば、よかったのにね?」
強い毒が、眼睛のなかで渦を巻く。
毒の嵐だ。慧玲は息をつまらせて、竦む。だが、彼の毒に臆しては、終わりだ。
「私が蜃に殺されたらよかったと?」
「は、殺させるはずがないだろう」
鴆があきれたとばかりに吐き捨てた。
「だったら、なぜ」
「解らないのか? 公賓にたいする調薬で失態をさらせば、その場で食医の役職を解任して、あんたから薬を取りあげられるじゃないか」
想像だにしていなかった言葉に慧玲は今度こそ、視線を彷徨わせた。
「……おまえ、私を女帝にしてくれるんじゃなかったの」
「そうだね、皇帝の椅子に君臨する貴女をみたいというのも嘘じゃないさ」
喋りながら、毒を扱う指は白澤の証たる髪を梳いていた。指は続けて、首筋をなぞる。逢ったときのように締めあげることはしなかったが、動脈をたどる指の動きからは毒蛇が絡みつくような執念を感じた。肌が、痺れる。
「でも、同じくらい、あんたが薬でなくなって落ちてしまえばいいとも想っている。地獄の底までね」
「そう」
ああ、どれくらいぶりだろうか。むかいあうこの男は毒で、相克する関係だったのだと思い知らされる。
それがたまらなく、嬉しかった。
彼だけだ。彼だけが、慧玲のうちにある毒をひきずりだしてくれる。そのかぎり、彼女もまた、薬であり続けられるのだ。
「おあいにくさまね。ここが地獄の底よ」
いつのまにか、拘束を解かれていた腕を持ちあげて、鴆の頬に指を添えた。
「でも、ここからさらに落ちるさきがあるというならば――落とせるものならば、どうぞ」
緑眼で果敢に睨みつければ、鴆が低く喉を鳴らして嗤った。
「はっ、ほんとうにたまらないな」
どちらからともなく、息をふっと抜き、睨みあいをやめる。
あれだけ張りつめていた毒気が嘘のように弛んだ。毒がなくなったわけではないが、嵐のような苛烈さはすでにない。
鴆は組みふせていた慧玲から退いて、乱れた敷布に身を投げだす。
互いに背をあわせ、横たわる。あれだけ言い争ったあとでも、側にいれば落ちつく。
愛ではなく。好敵でもなく。どんな言葉でも表せない。嵐かと想えば、華になる。奇妙な関係だ。
強いていうならば、喰らいあう毒と薬か。
逢ってしまったばかりにひとつの根で絡まりあい、結びついている。背きあっても、離れられず。かといって、ひとつにもなれず。
でも、だからこそ、孤独ではなかった。
「まだここにいなよ」
「……もうちょっとだけね」
諦めて、睫をふせる。
窓の側に枝垂れる藤のうす紫を眺めつつ、昼さがりのひと時、微睡んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
発売から一週間経ちましたが「後宮食医の薬膳帖3」大変ご好評をいただいております。文庫版はWEB版よりも加筆修正を施しています。あわせてご覧いただければ嬉しいです。特に「鴆と慧玲」の毒ラブシーンが加筆されています。
今後とも応援していただければ幸甚です。