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15 秘する華を解く

 綺羅星きらぼしにさきがけて、盆の月があがった。

 春霞にぼやけた月に虹のがかかり、とろりと潤んでいる。時折強く吹きわたる風には花のが漂い、春終はるじまいを報せていた。

 雪梅シュエメイ嬪とともに春の宮に帰還した慧玲フェイリンは雪梅嬪の房室につくなり、神妙に跪き、額を地につけた。


「お詫びいたします」

「やめてよ。詫びてもらわないといけないことなんか」


 雪梅シュエメイ嬪は何事だと腕をつかんで頭をあげさせようとするが、慧玲フェイリンは頑として動かなかった。結果よしで終わらせるわけにはいかないと。


「薬の効能が、おくれました。解毒がまだ完全ではないうちに舞を演ずることとなり、雪梅嬪には大変なるご負担をお掛けすることに」


「なによ、そんなことなの」


 雪梅嬪が鼻でわらいとばす。

 窓の際まで進んでから、彼女は振りかえり、自身の胸を指して声をあげた。誇らかに。


(わたくし)の舞は麗しかったでしょう」

「……御見事でした」


 雪梅嬪は唇をもちあげ、笑いかけた。


「だったら、それがすべてよ。……再びに舞えるとは夢にも想ってもいなかったもの」


 すそから覗く白い素脚をなぜながら、雪梅嬪は幸せそうに頬を綻ばせた。


「貴女がすべて監修したのでしょう? 素晴らしかったわ。私は幼いときから贅をつくした食に触れてきたけれど、こんなにおいしいものがあるなんて知らなかった。悔しいけど、感服したわ」


 白味噌をかけた鴨の焼き物、芙蓉蟹、紹興酒漬けの海老、馬火鍋、杏仁豆腐――と雪梅嬪は指を折りながら、味の余韻に浸る。


「ねえ、確か、食医の本旨は日頃の食によって健全なる身を維持し、未病のうちに治療することだったはずよね。あなたが後宮の日々の食も監修してしまえばよいのに」


「有難き御言葉ですが、残念ながら難しいでしょう」


「だったらせめて、さきほどの食帖しょくちょうだけでも」


 食帖といえば、調理の手順を記した書物だ。慧玲は苦笑する。

 白澤の一族はその知識を書物には残さない。口伝された言葉を頭のなかで書と為し、収める。何故ならば。


「なりません。だってあれは」


 うっそりと唇を綻ばせて。

 慧玲は秘していた《華》を明かす。


「すべて、毒ですから」


 雪梅嬪の微笑が一瞬で凍てついた。

 自身の耳を疑うように雪梅嬪は瞬きばかりを繰りかえしていたが、ずいぶんとおくれてから「どういうこと」とだけ声をあげた。


「一例ですが、最後に振る舞った杏仁あんにんには実は二種ございます。甜杏仁テンキョウニンは無毒ですが、苦杏仁クキョウニンは青酸を含み、猛毒です。誤って後者を食べれば呼吸不全に陥り、死にいたります。なので、甜点テンテンにもちいられるのは甜杏仁テンキョウニンだけ。ですが私は、敢えて毒のある苦杏仁クキョウニンをつかいました」


「な、なんでそんな、危険なものを」

「苦杏仁にこそ、強い薬効があるからです」


 それにあれほどまでにまろやかな芳香は、甜杏仁テンキョウニンにはない。


「〈以毒攻毒――毒をもって毒を制す〉

 昔からある言葉です。雪梅嬪はご存知かと想います。ですが、白澤の一族はさらにこう続けます。

〈森羅万象、一切都是有毒的――万物、此れ、ことごとく毒なりて。即 药是毒药――すなわち薬とは毒なりき〉

 苦き薬が毒となるように、口に旨き毒は《妙薬》となるものです」


 雪梅嬪を蝕んでいた毒は《木の毒》だ。だが、そのもとをたどれば死穢しえ。死穢は《いんの毒》と称される、きわめて強いものだった。


「ですが強すぎる薬は御子に障ります」

「……なぜ、そのことを」


 雪梅嬪が息をのみ、とっさにかばうように下腹に触れた。


「ご懐妊からふた月ほどでしょうか。……梅の頃ですね」

「誓って陛下の御子よ」


 慧玲もそれは疑っていなかった。宦官には女を孕ませることはできない。だが、皇帝との房事ぼうじは遠からず宦官の死に結びついている――そうも考えていた。


「なぜ、ご懐妊を公表されないのですか」


 この様子だと皇帝にも報せていないはずだ。雪梅嬪は安定期までは隠し通すつもりだったという。


「後宮は皇帝陛下の庇護下にあるというけれど、実際は敵ばかりだわ。先々帝の頃には皇帝に寵愛された妃嬪が続々と暗殺されたというじゃない。だから、信頼する女官たちにも懐妊を隠していたのよ」


 御子を護るために。


 雪梅シュエメイ嬪は皇帝の寵愛が約束されたことで、遊びにすぎなかった宦官との縁を絶ったのだろうか。哀れなる宦官は自身を捨てた最愛の女を嘆き、梅のたもとで命を絶ったのだ。梅の麗しきに雪梅嬪の舞姿を重ねながら。梅に殉ずるがごとき、何処となく心中めいた最期だった。


「雪梅嬪、こちらに……見憶えはございませんか」

 慧玲は懐から、錆びついたかんざしを取りだした。金に梅の意匠。きらめく梅を映した途端に雪梅嬪の瞳がざあと騒めいた。水鏡が割れるかのように。


「これ、は……殷春イェンチュンに、逢ったの?」

「殷春。それが自害じがいした宦官の名なのですね」


「自害……ですって」


 雪梅嬪がさあと蒼ざめた。


「嘘よ、殷春イェンチュンが命を絶ったなんて……どういうことなの、ねえ」


 雪梅嬪の取り乱すさまをみれば、嘘をついているとは想えなかった。彼女はなにも知らなかったのだ。

 慧玲は戸惑いながらも、努めて冷静に言葉を紡いでいく。


殷春イェンチュンというその宦官は、ふた月前に梅の根かたで命を絶ちました。この簪を喉に突き刺して。不躾ぶしつけなことを御伺いいたしますが、彼とはなにかご縁があったのでは」


 雪梅嬪は視線を彷徨わせながら、答えにならない言葉をこぼす。


「……約束を、違えたのは……彼のほうだと、ずっと」


「約束、ですか?」


 雪梅嬪はぎゅうと瞼をひき結ぶ。慚愧ざんきに堪えかねて、言葉を落とした。


「黄泉の旅路をともに……そう、契りを結んだのよ」


 雪梅嬪は宦官と心中するつもりだったのか。それはあってはならないことだ。陛下にたいする逆心ぎゃくしんと取られても致しかたない。


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