14 薬膳の宴 其の弐
引き続き、グルメ回です。楽しんでいただけますように。
(いまのところは誰も毒がまわっている様子はない。でも気は抜けない)
ただ、毒を解くだけでは、意味がないのだから。
「なるほど、面白い趣向だな」
夏の季妃が八重歯を覗かせて、にっかりと笑った。彼女だけが裙ではなく、遊牧民の胡服を着ていた。袴はこの後宮では男の服だが、彼女の民族は女も全員袴だという。上背もあり、馬を駈っても様になるだろうと想った。
「ちゃんと満漢全席における八珍を取りいれているのか」
八珍とは禽、草、海、山に分類される各八種の珍味を表す。
さきほどの花菇、銀耳は春の茸であり、草の八珍に含まれていた。鴨もまた禽の八珍のひとつだ。海の八珍からは魚翅と鮑魚。山の八珍は癖が強く、妃嬪には抵抗があろうと想われたので、食べやすい猪で補った。
食事の最後を飾るのは椀だが、用意されたのは小型の鼎と蝋燭だった。
鼎とは青銅の鍋である。今度はなんだろうかと妃嬪たちは瞳を輝かせた。
「失礼いたします。火をおつけ致しますね」
火を跨ぐように鼎が据えられた。
「まあ、火鍋だわ!」
熱せられて濁りのない白湯がくつくつと煮えだす。焔棗、枸杞の実、花椒、孜然、肉豆蒄、丁香が踊るようにまわりだした。続けて皿に盛られた肉が配られる。うす紅の赤身に脂の霜が降っており、箸にかければ透きとおるほどに薄かった。
「こちらは馬です。白湯にくぐらせてから、お召しあがりください」
司膳に扮した慧玲が妃嬪たちに声を掛けてまわる。
今朝がた後宮の端にある厩に赴き、捌いてもらったばかりの馬だ。馬刺しでも食べられるほどに新鮮だった。
「ふむ、馬の肉は異境では桜に譬えられるとか。これほど春の宴にふさわしいものはあらぬな。褒めてつかわそうぞ」
笏を鳴らして、微笑んだのは冬の季妃だった。
白梟の羽根で織りあげた襦裙を身に纏い、触れればすうといなくなってしまいそうな幽玄な趣きを漂わせている。彼女は女の身でありながら鴻儒であり、皇帝にも日頃から知恵を授けているという。
鶉の旨みが蕩けだしたつゆにさっと通して、口に運ぶ。
妃嬪たちが一斉に瞳を見張った。舌に乗せただけで、ぱっと脂が弾けたのだ。戸惑いながら、そっとかみ締めれば、続けて赤身から旨みが溢れだす。馬というと野味のある味わいを想像するが、ともすれば豚よりも臭みがなかった。
「……ね、笑わないで、聴いてちょうだい」
この感動を言葉にせずにいられないと、春の季妃が震える声をあげた。
「馬が……口のなかを駈けていったの……」
「そう、それだ。草原の風をまきあげながら、駿馬が奔った」
夏の季妃が頷いた。
風と錯覚させたのは、絶妙に組みあわされた香辛や漢方だ。それらはおもに獣の臭みを紛らすためにつかわれるが、この鍋においてはそうではない。
火鍋といっても辣椒の利いた紅湯ではなく、白湯が選ばれたわけがいまさら理解できる。
ひとえに馬の滋味を際だたせるためだ。
「これが、命を食すということなのね」
沈黙を続けていた秋の季妃が、ほつりという。声は細かったが、ひとひらの落ち葉が湖に淪を拡げるように響いた。
秋の季妃はこれまで欠席を疑うほどに影が薄かったが、あらためて視線をそそげば、純金純銀、珠宝や錦等で豪華絢爛に飾りたてていた。それなのになぜ、いままで意識がむかわなかったのかと誰もが眼を瞬かせる。
「医も、食も、命から命に繋ぐもの――ああ、見事ね」
秋の季妃が感服したとばかりに花瞼を重ねた。
火鍋を堪能し、締めは椀に収められた甜点だった。
「あら、豆腐かしら」
白く、匙を差しこめば、ぷるりとはねかえすだけの弾力がある。すくいあげて、頬張れば、あまやかな芳香が鼻を抜けていった。酒とも似た芳醇さだ。これは何かとまたも妃嬪に問い掛けられて、慧玲が答える。
「杏仁豆腐です。杏の仁を擦りつぶして搾り、乳と寒天でかためた冷菓です。杏仁は肺と腸を潤す薬でしたが、その苦さから敬遠されてきました。患者が心地よく服すことができるよう、薬師が造りあげたのがこちらになります」
甜点というと、揚げた餅や餡いりの包子ばかりを食べてきた妃嬪たちは、こんなに香りよく舌触りのよいものは食べたことがないと声をあげ、感激していた。
いよいよに宴もたけなわだ。
しかしながら、まだ、梅は咲いていた。
慧玲はひそかに眉を曇らせる。ほんとうならば解毒が終わっている頃なのに、雪梅嬪も心細げに脚をなぜていた。木の毒を強くする舞台の風水が思いのほか薬の効能を阻害している。
「春季の宴もまもなく幕締めね。名残り惜しいわ。けれども季節は循り、刻は流れ続けるものですもの。それもまた、愛しいものだわ」
皇后が締めの言葉を掛ける。
「最後の舞台は、華の舞姫に演じていただこうと想うのだけれど……雪梅嬪は脚を挫いたと聞いたわ。舞ってもらえるのかしら」
皇后に指名されて、雪梅嬪が一瞬だけ、瞳を凍てつかせた。
妃嬪たちが視線だけで囁きあう。ねえ、雪梅嬪が病に侵されているというあの噂は、誠だったのでは――と。
だが、雪梅嬪はすぐに華の微笑で繕った。
「喜んで」
雪梅嬪が杖を取ろうとする。
緊張のためか、うまくつかむことができずに杖が倒れてしまった。
雪梅嬪はとっさに小鈴を呼ぼうとして、宴の舞台に女官を連れてくることはできないことを思いだす。とっさに慧玲が杖を拾いあげようと動きかけた。
だが雪梅嬪は頭を振って助けを拒絶する。
他人に頼ることなく、雪梅嬪はつまさきを地につけ、踏ん張った。梅に蝕まれて強張った足指は動かすだけでも軋む。痛むのか、彼女は眉根をゆがませた。
(雪梅嬪……どうか、ご無理はなさらず)
彼女の脚は梅の木になりかけている。無理な力を加えて損傷すれば、取りかえしがつかない。だが雪梅嬪は重心を脚に移して、倚子から腰をあげた。
ぱき、と。凍てついた枝の、砕ける音が響いた。
雪梅嬪が瞳を見張る。
脚が折れたのではないかと慧玲は青ざめた。だが雪梅嬪の唇が安堵に綻んでいったのをみて、ついに解毒がはじまったのだと理解する。
雪梅嬪は胸を張って、華道を進み、舞台にあがった。
音楽が変調する、静かな雅楽から舞楽に。
雪梅の舞は言語を絶する麗しさだった。
弾ける古箏の旋律に身を預けてふわりと舞いあがったかと想えば、はらと地にしな垂れる。脚をそろえて跳躍すれば、蝶。袖を拡げて廻れば、華。誰もがその舞姿に魅了され、言葉を絶する。
踏みだすだけでも節々が軋み、ふらつくだろうに、雪梅嬪は一瞬たりとも苦痛を覗かせることはなかった。花唇に艶やかな微笑を湛え、表すはただ、歓喜のみ。
そう、これは歓びの舞だ。
冬の戒めを振りほどき、春にさきがけて咲き誇る梅の欣幸だった。
乱舞する桜吹雪が舞姫に降りかかる。華に嵐、とばかりに。だが、うす紅の葩を身に享けていっそう麗しく、艶を帯びて、舞姫は踊り続けた。
華の命は短きものだ。咲けば、散りゆくさだめとしても。咲かぬは華にあらず。惜しみなくひと春を咲き誇れ――とばかりに。
そのときだ。雪梅嬪の裾からひとつ、ふたつと梅がこぼれた。
葩を残して、最も綺麗に咲き誇ったすがたで。
妃嬪たちは舞の演出だと思いこんでいるが、慧玲はすぐに理解する。雪梅嬪の身に咲き群れていた梅がいま、完全に解毒されたのだ。
されども、彼女を侵蝕していたのは紅梅だった。ともすれば血や錆を想起させるような。だが身から散りこぼれる梅は――清らかな白梅だ。
「舞姫は、春を歓び、春を誇り、春を葬る……か」
さながら春の誄歌だ。慧玲は春風に舞うこぼれ梅をてのひらに乗せ、睫毛をそうと重ねあわせた。鎮魂を禱るように。
斯くして、春の宴は、華たちの歓声で幕を降ろした。