幕間 毒なし女官、風邪をひく
「くしゅん」
ようやくに梅が綻びはじめたというのに、せっかく緩んだつぼみがしぼんでしまいそうなほどに寒い朝だった。女官たちが寝泊まりする宿舎でひとつ、くしゃみがあがった。
明 藍星だ。
「あら、藍星、だいじょうぶ? めっきり寒くなったものねぇ」
「なんでも春の宮では風邪がはやっていたとか。あんた、食医の女官をしているんでしょ?」
相部屋の女官たちが声をかけてきた。
「だいじょうぶですよ、私、都にいたときは風邪ひとつ、ひいたことないんですから」
ほら、こんなに元気ですよと袖をぶんぶん振れば、日頃から藍星の底抜けの明るさを知る女官たちは顔をみあわせて笑った。
「まあ、藍星は元気が取り柄だもんねぇ」
藍星は洟をすすりながら身支度を終え、職場である離舎に出勤していった。
後宮の園林には雪は残っていないが、離舎に続く竹藪は日が差さないせいか、いっきに雪が深くなる。雪を踏み締めて離舎につくと、すでに庖房から細く煙があがっていた。
「おっはようございます! ……くちゅん」
「おはよう、藍星。寒かったでしょう、まずはなかで暖まってね」
慧玲はたすきを掛けて、調薬の支度をはじめていた。コトコトと鍋で煮られているのは鶏だ。微かに八角の香りがする。
「わあ、いいにおいですね」
「冬はからだが冷えますからね。八角は建胃の効能があるほかにからだをポカポカに温めてくれるんです。春の宮の風邪はずいぶんと終息しているみたいですが、風邪は治りがけがいちばん危ういので、残った風邪を八角で退散させてもらおうとおもいまして」
「へえ、そうなんですね。何から手伝えばいいですか?」
「では葱を刻んでもらえますか」
「了解です」
藍星はなんとなく頭がぼーっとしてきていたが、寒いところからいっきに暖かい庖房に入ったせいだろうと考えなおして、調薬の補助を努める。だが葱を刻んでいるうちに手もとが狂って、指を軽く怪我してしまった。
「つぅ……すみません」
「藍星、だいじょうぶですか。すぐに包帯を持ってきますからね。それにしても、なんだか顔が赤いですよ……?」
慧玲が覗きこみ、藍星の額にみずからの額をつける。
「まあ、いけない。熱がありますよ」
「えっ、えっ、ほんとですか」
藍星が慌てる。薬をつくるところに風邪っぴきの女官がいては迷惑になる。
「す、すぐに帰ります。すみませんでした……って、はわわ」
ひきかえそうとしたところで強い立ち眩みがして、藍星は倒れこんでしまった。視界がまわっている。
「酷い熱ですよ、どうか安静に!」
慧玲が腕をひき、藍星のことを臥榻まで連れていってくれた。申し訳なくて「帰ります」と何度も訴えたが、慧玲に「だいじょうぶですから」と頭に冷たい手拭いを乗せられ、寝かしつけられた。
「風邪、かあ……」
風邪をひくのなんて、どれくらい振りだろうか。
藍星の妹と弟はしょっちゅう熱をだして倒れていたが、藍星は風邪知らずだった。とくに父親が処刑されて母親が壊れてからは、ひとりで妹弟の面倒をみないといけないのに風邪なんかひいていられるかとおもって、気力で乗りきってきた。
愛する夫の死後、喋ることもなく、ぼうっとして眠るばかりになってしまった母親。まだ幼い妹が「母ちゃん、母ちゃん」と泣きついても壁ばかり眺めている姿をみたとき、ああ、このひとは壊れてしまったのだなあとおもった。こわくて、せつなくて――先帝を怨むしかなかった。
でも、先帝の姑娘は藍星が想像していたのとはまったく違うやさしいひとで。怨み続けることは、どうしてもできなかった。
この一年間だけでも出張したり、死にかけたり、いろんなことがあった。
これまでの疲れがどっと出てきたのだろうか。
うつらうつらしていると、ふわりとやさしい声が掛けられた。
「藍星、お粥をつくってきました。食べられますか?」
「申し訳ないです……わあ、なんておいしそうなんでしょう」
慧玲が温かな薬膳粥を土鍋につくってきてくれた。薬膳といっても大根と大根の葉、おろし生姜と塩昆布のあっさりとした粥だ。
「大根には解熱の効能、でしたよね? 慧玲さま」
「よくおぼえていましたね、そのとおりです」
とろとろになるまで煮こまれた大根の味わいがやさしく、かみ締めるほどに旨みが拡がる。からだだけではなく、こころまで温めてくれるような粥だ。
「……おいしいです、とっても」
風邪特有のふわふわした頭で想いだす。
幼い頃に風邪をひいたとき、母親が眠らずに看病して、炊きたての粥を食べさせてくれた。ただの白粥だったが、あたたかくて、翌朝にはすっかりと風邪がよくなったのをおぼえている。たいせつな想い出のひとつだったのに、想いだすことがなくなっていた。
「慧玲さまのお薬は……やっぱり、やさしいですね」
慧玲の薬のおかげで、久し振りに壊れていない母親のことを想いかえすことができた。
「御礼を言うのはこちらですよ、藍星。あなたがいてくれるから、私は……」
慧玲は何かを言いかけたが、ふわりと微笑んで続く言の葉をごまかした。
慧玲は藍星にたくさんの隠しごとをしている。藍星はそうとわかっていて、無理に尋ねることはせず、いつか慧玲から藍星に話してくれる時を待っていた。
粥を食べ終えるとまた、いっきに眠たくなってきた。
「ゆっくりと眠ってくださいね」
「……ありがとう、ございます。おやすみなさい……」
薬碾の調べを聴きながら、藍星は眠りに落ちていく。とても幸せだった子どもの頃の夢をみた。
◇
「おっはようございます!」
翌朝、元気いっぱいな藍星の声が離舎であがった。
「慧玲様の薬膳粥のおかげで、今朝はすっかりと熱もさがってくしゃみもとまりました。ほんとうにご迷惑をおかけいたしました」
「とんでもないです。げんきになってよかったですね」
慧玲がにっこりと微笑んだ。
「そんなわけで、バリバリ働かせていただきますので、ささっ、なんでも仰ってくださいね」
「それでは申し訳ないのですが、地竜を」
桶を渡される。竜と聴いて、なんだかすごそうだとおもって桶を覗きこんだ藍星は咄嗟に放りだしそうになった。
「な、な、なんなんですか、これはあぁぁ」
「地竜です」
「みみずじゃないですかあぁぁ」
「とても強力な解熱剤になるんですよ。春の宮でまだ熱のある患者様が残っているそうなので」
せっかくさがった熱がぶりかえしそうだ。
藍星の賑やかな悲鳴が雲ひとつない朝の青空にこだましていった。
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