2‐17人喰いの華は微笑む
久し振りの皇后様の登場です。
黄昏の光に満ちた水晶宮のなかで、後宮で最も高貴な華が微笑んだ。
「ふふ、お疲れさま。きちんと務めてくれているみたいね」
輪倚に腰掛けた彼女は欣華皇后――摂政を執る今は太后とするべきだが、皇后が「あら、皇帝陛下のお母様になったみたいでいやだわ」と言ったため、称は皇后のままとなっている。
「貴方の分まで慌ただしくしていますよ」
鴆がため息まじりに肩を竦めた。
皇帝が崩御して、いまや彼女の威光は後宮に留まらず、宮廷をも統べていた。
だが、この皇后、政務を完璧に放棄しているのである。ついては、皇后がなすべき政務まで、ひそかに鴆が執ることになっていた。
「ふふっ、助かるわ。政のことなんか、妾はこれっぽっちも考えたくもないんだもの」
皇后の背後で咲き誇る向日葵が、風に吹かれてゆらゆらと踊る。
季節を違えた夏の花が、貴宮では見頃になっていた。
「ごほうびに欲しい物があったら、なんでもいってちょうだいね。まあ、でも、蜃とのことは、ちょっぴりざんねんだったかしら。剋が蜃と争うことになっても、それはそれで、妾は嬉しかったのだけれど」
欣華皇后は向日葵よりも向日葵らしく微笑みながら、そんなことをいってのけた。鴆は微かに眉を寄せつつ、なだめるようにかえす。
「海での争いは損ですよ。ほとんどは浪にさらわれて、喰えたもんじゃないでしょう」
「あらあら、それはだめね。がっかりだわ。でも、妾はおなかが減っているの、とても、とてもよ?」
皇后は人を喰らう。
昨年までは戦場に赴いては戦死者の屍を喰らっていた。雕皇帝は愛する皇后の腹を充たすため、敵の侵攻を敢えて看過して、小さな争いを頻発させていたという。さながら、化生だ。
皇帝が骨になっていたという例の噂も、皇后が喰らったのではないか、と鴆は疑っていた。
「七日後に都の北東の刑場で死刑が執りおこなわれます。旅人を襲っては命を奪い、物を略奪していた賊です。加担していた宿屋もあわせて、百程。全員が磔の刑に処されて、死後は化野に晒されますので、あとはお好きなだけ、どうぞ」
「まあ」
嬉しそうに皇后が微笑した。
「楽しみだわあ」
妄りに争いを勃発させるより、罪人を死刑に処すほうが被害を抑えられる。皇后は別段死にかたにこだわりがあるわけでもない。
「貴方にとっては猪や鶏を喰らうのと大差ないのか」
鴆がぽつりとつぶやけば、皇后は一瞬だけ瞳を見張ってから、蕩けるように弛めた。
「雕とおんなじことをいうのね、あなた」
鴆が今度こそ、気分を害する。
雕皇帝は鴆の実の父親にあたる。だが、彼は鴆と母親に先帝暗殺の禁毒をつくらせてから、捨てた。鴆は雕皇帝を怨んでいる。彼が死んだいまでも、想いだすだけで腹の底が燃えるほどに。
「ふふっ、だって、ほんとうにそっくりなんですもの」
鈴の転がるような笑い声が、鴆の神経を逆なでする。
鴆は胸に湧きあがる怨嗟をのみくだすため、ため息を挿んでから、話題を転じた。
「欲しい物はあるかと尋ねましたね。物はありませんが、ひとつ、望みがあります」
「あら、なにかしら。妾にかなえてあげられることだったら、いいのだけれど」
鴆が袖を掲げた。
「蔡慧玲に毒杯を渡す役割は今後、僕が受け持ちたい」
慧玲は身のうちに毒を喰らう毒を飼っている。
その毒は月が満ちるごとに飢えをともなって、彼女を蝕む。毒にたいする飢渇を満たせるのは宮廷の秘たる特殊な毒だけだ。もとは皇帝が慧玲に施していたこの毒は、皇帝の死後、皇后が渡すことになっていた。
「ふふっ、もちろん、いいわよ」
皇后が側におかれていた鈴を振る。すぐに貴宮女官が入室してきた。
「例の物を、彼に渡してあげて」
「こちらにございます」
貴宮女官は青竹の筒を盆に乗せ、差しだしてきた。鴆はそれを預かる。
これが宮廷で継承される特殊な毒か。
毒師が調毒しているのか。あるいは造られたものではなく植物などから取れる毒で、倉房に保管されているのだろうか。
鴆の宮廷で捜しているもうひとつのものが、この毒の素姓だ。
(これを取りこむことができれば、彼女を縛るものをひとつ、取り払ってやれる)
可能なはずだ。鴆はあらゆる毒を喰らい、人毒となったのだから。
「無理よ」
鴆が息をつまらせる。
虹を砕いたような瞳が、覗きこんできた。すでに貴宮女官は退室している。
「あなたがなにを考えているのか、妾にはぜんぶ、わかるわ。けれども、やめておいたほうがよいでしょう。万の毒を身につけたあなたといえども、この毒だけは、飼いならせない」
皇后は愚かなこどもをたしなめるように語りかけてきた。噎せかえるほどの花の香が謎めいて漂う。
「だって、これは」
言いかけて、彼女はうっそりと唇を噤んだ。
秘するが華、語れば毒というが如く。
お読みいただき、御礼申しあげます。
第六部もまもなく閉幕です。あとひと息、おつきあいただければ幸いです。
続きは20日に投稿させていただきます。






