2‐10南海の王は女の食医を軽蔑する
果たして王様は慧玲の食膳を食べてくれるのでしょうか?
宮廷の食殿はきわめて、きらびやかだ。
皇帝や皇后が食事を取るだけではなく、公賓をもてなす場でもあるため、豪奢な調度で飾りたてられている。
如月ということで梅紋様の毛氈が敷かれ、春を連想させる豪奢な大壺がおかれていた。壁には梅の浮雕が飾られ、彫刻から具現するかのように本物の梅が挿されている。たいそう雅やかだ。
だというのに、食殿には春らしからぬ険悪なふんいきが漂っていた。
「今晩もまた、碌に食えもしない飯をあいだに挿んで、親睦会のまねごとか。はっ、御苦労なことだな」
側近を連れた蜃王が嗤う。
露骨な嫌みにも鴆は朗らかな微笑をかえした。
「大陸の宮廷料理は、蜃の客人の口にはあわないようだね。今晩は趣向を変えて食医が調えた食膳を振る舞いたい。貴公にとっても、かならずや、よき食卓となるだろう」
「どんなお偉い庖人が調理しようと変わらないさ。大陸の食は俺にとって、毒ばかりだからな」
扉がひらかれ、食膳が運ばれてきた。
蜃王が眼を見張る。食膳ではなく、それを運んできた白銀の髪を結わえた姑娘の姿に、だ。
「さっきの姑娘じゃないか」
慧玲は食卓に膳をおいてから、優雅に袖を掲げ、揖礼する。
「蜃王様に拝礼いたします。食医をつとめる蔡慧玲でございます」
蜃王が度肝を抜かれたとばかりに絶句した。だが、すぐに眉を逆だて、食卓に身を乗りだす。
「女の分際で宮廷庖人だと……馬鹿にしているのか!」
彼の指摘どおり、宮廷庖人は男の役職だ。社会において身分が低く、教養のない女に皇帝が食するものをつくらせるわけにはいかないと考えられてきたためだ。
蜃の側近も顔をみあわせ、続々と非難の声をあげた。
「女庖人というだけでもふさわしくないというのに、食医といえば、医の官職ではないですか」
「女がつける身分ではない」
「蜃を侮っているのでは」
喧々囂々と声が飛びかう。
慧玲は恥じるところはないとばかりに揖礼を続けているが、ついてきていた藍星はきょどきょどと視線を動かして、身を縮ませている。
「我が宮廷では」
静かな声が喧騒を割る。鴆だ。
「能あるものにふさわしい官職を与えている。異論があるのならば、食してからいってくれ」
ざわついていた側近たちが不承ながら、退きさがった。
「食医の膳が他ならぬ剋の総意だよ」
鴆にうながされて、慧玲は椀に乗せられていた蓋を取る。
「王鯛拉麺にてございます」
澄んだ素湯。春の浪を想わせる細い白麺。椀のなかを悠然と渡るのは、海洋の王者たる鯛の素揚げだ。鮮やかな皮を残してからりと揚げてあるので、華やかで視線を惹いた。
あたりに漂った磯の香を嗅ぎ、蜃王の側近たちがこらえきれずに唾をのむ。
「こんなもの、食えるか」
だが、蜃王は腹だたしげに吐き捨てた。
「拉麺は俺にとって毒だ。昔からまともに食えた試しがない」
「ご安心ください。王様の御身に障るものはつかっておりません。こちらは穀物をいっさいつかわず、緑豆だけで練った麺です」
虚をつかれたように蜃王が眉根を寄せた。
「どういうことだ」
「先程から「毒」と仰せになっていますが、それらは王様にだけ、毒となるものではございませんか? 毒味役には毎度、異常はなかった。ですから、いまも毒味役をつけていない――違いますか」
側近たちがそろって、黙りこむ。
誰もが普通に食べている食事がなぜ、王にだけは毒となるのか、彼らも奇妙におもっていたのだろう。
「これまで毒が混入していたものは粥、包子、饅頭、拉麺と小麦や米等の穀物をつかった食膳ではありませんでしたか。食後に不調をきたしたご経験から毒だと認識しておられますが、ほんとうは違います」
「なにが違うんだ」
慧玲は頭をさげて拱手しながら、続けた。
「毒のないものが毒になる。これは、人体の免疫が過剰に働いた結果です」
感冒と一緒だ。感冒のときに発熱したり、喉が荒れて咳がでるのは免疫細胞が身のうちに侵入してきた異物を排除しようと攻撃するためだ。だが、まれではあるが、害のないものを異物と誤認して、免疫が働きかけることがある。
「王様の御身は、害がないはずの穀物を毒と誤認し、強制的に排除しようとしている。その結果、呼吸困難、発疹、発熱、腫れなどの諸症状があらわれるのです」
蜃王の手は荒れていた。あれは幼少期から発疹を繰りかえし、掻き壊してきた痕だ。化粧をした妃妾たちを強く拒絶していたのも、過去に触れあって発疹などに苛まれた経験があるからだろう。それもそのはず、香粉には米粉が含まれる。
「誤認だと? 俺の勘違いだとでもいいたいのか?」
「とんでもございません。逆です。王様にとって、穀物は毒となる。最悪、命にかかわります。ですから、徹底して穀物を排除した食を調えました。小麦ひとかけらたりとも混入することがないよう、鍋なども新調しております。ご安心して、御召しあがりください」
蜃王が拉麺の椀を睨みつける。
揺れる視線からは、強い葛藤がうかがえた。
誘惑がない、はずはない。これまで食すことのできなかった拉麺を、食べられるかもしれないのだ。側近たちが日頃からあたりまえのように食べ、「旨い」といっていた麺。うらやましくなかったといえば、嘘になる。
「信頼できるとおもうのか?」
「……命を賭せば、信頼していただけますか」
慧玲がひとつ、進みでる。
「この食が王様にとって毒となることがあれば、その時は、この命を差しあげます」
誓ったのがさきか。
「へえ?」
蜃王が腰に帯びていた剣を抜いた。
剣の先端が慧玲の喉をかすめる。藍星が「きゃあ」と悲鳴をあげ、鴆は無言で双眸を細めた。
「女の庖人なんかの命が、この俺とつりあうとでもおもっているのか?」
お読みいただき、御礼申しあげます。
私事ですが、本日9月22日をもって作家デビュー2周年になります。ここまで続けられたのは読者様の支えあってのことです。ほんとうにありがとうございます。
これからも読者様に楽しんでいただけるような物語を書き続けていきたいとおもいます。
今後とも「後宮食医の薬膳帖」をよろしくお願いいたします。