102毒の皇太子きたる
宮廷の奉麒殿には、皇帝の倚子がある。
奉麒殿は宮廷で最も大規模な御殿だ。頭上には森羅万象を象った藻井が拡がり、柱には竜が絡みつき、玉座に続く九段の階段は鳳凰の翼を想わせる装飾が施されていた。皇帝の即位を始めとした宮廷儀礼はかならず、この宮殿内部で執りおこなわれる。財と技巧を集結させて造られた宮殿はまさに万象の帝が君臨するにふさわしい。
雕皇帝の崩御によって黄金の玉座は空席となっていた。
君帝なき奉麒殿に今、右丞相左丞相を筆頭として三師、三公、九卿、その他の高官たちが集められていた。慧玲もまた廃されたとはいえ、帝族である。これまでの後宮食医としての働きもあって、同席を許されていた。
招集したのは欣華皇后だ。
廷臣たちは一様に緊張して、皇后の詔を待っている。
「一昨日未明に胥雕皇帝陛下が身罷られました」
錫衰と称される帝族の喪服を身に帯びた皇后が語りだす。
「帝魂は鳳となり風に還る。それが理にてございます。ですが、偉大なる皇帝陛下の崩御は日華を喪うが如きこと。日華は雲に隠れてもなお、万星を導き続けますが、地に息衝く民草は天恵の御光を喪い、惑っております。果たして新たなる日華は昇るのかと」
雕皇帝は遺言を残さず、嫡嗣も儲けずに崩御した。
新たな皇帝はどうなるのかという疑念は、宮殿に集まっている重鎮たちの頭にも重く横たわっている。
「暫くは妾――胥欣華が摂政となりましょう」
皇后の背後から後光が差す。欣華皇后には誰もが傅かずにはいられない天賦の威光が備わっている。彼女が日輪になれば安泰だ。廷臣は万々歳と唱え、諸手を挙げて賛同する。異論を唱えるものは誰もいなかった。
「ですが」
欣華皇后の言葉に場が静まりかえる。
「雕皇帝には嫡嗣がおられます」
廷臣がざわめいた。
「失礼ながら、ご嫡男は六年前に失踪されたはず」
「ええ、すでに薨御されたものと想われておりましたが、星の循りとは実に奇しきもの。嫡嗣はこの宮廷に帰還いたしております。――――胥鴆」
人の垣が矢庭に割れた。
促されるでもなく、凄まじい畏怖を本能で感じて後ろに退ったのだ。
拓かれた径を静かに。それでいて、威風堂々と進んできたのは、鴆だった。
銀が施された紫の絹に袖を通した鴆は、いっさいの毒を隠さず、誇るように振りまいていた。悪辣なまでの毒。だが死に触れることもなく、富だけを貪って肥えた者たちはそれが毒だとも理解できなかった。眼前を通りすぎる秀麗で恐ろしい男を、慄然と眺めるほかにない。
なかには鴆が宮廷風水師だと知る者もいたが、別人のような威圧感に身が竦み、声をかけることすらできなかった。
鴆は嘲るように全員を睥睨する。
彼はさながら、毒の嵐だった。颱が草木を薙ぎ、風邪が人を侵すように彼はひと睨みで場を制す。
慧玲だけが毒気にあてられることなく、視線で訴えかけた。
(鴆、なぜ――)
皇帝の倚子に興味などないと語っていたのは嘘だったのか。それとも怨嗟の飢渇を満たされず、皇帝になることで補おうと考えたのか。
あるいは。
鴆は視線を察して、振りかえる。
(なにか、思惑があるの)
紫と緑の視線が交錯する。
睨みあったのは一瞬。
鴆は慧玲に背をむけ、欣華皇后のもとに赴く。
腰から提げた玉佩の珠を奏でながら、彼は進んでいった。
事態を受けいれられず、廷臣たちが静かな恐慌に陥るなか、鴆と皇后だけが不穏な微笑を湛えていた。