101皇后の誘惑は新たなる毒
皇帝の死からひと晩明けて、鴆は都にいた。
都は騒がしかった。日蝕が皇帝の死を報せていたのだと騒ぎたてるものがいれば、今度は皇后が女帝に君臨するだろうと噂するものもいた。
桶をかえしたような喧騒に背をむけて、鴆は町の角をまがる。裏路地のざらついたにおいは鴆には慣れ親しんだものだ。皇帝なき今、風水師として後宮にとどまる必要もなくなった。
(もう宮廷に戻ることはないだろう)
慧玲のことだけが、抜けない棘のように胸に刺さっていた。
敏く、強かで、果敢ない姑娘。透きとおった魂に地獄じみた毒を飼い、薬に呪われているくせして、誰かを助けるために調薬をして争い続けている。それでいて、彼女はまったく哀れではない。
哀れではないことがたまらなく、哀しかった。
彼女はこれからも薬であり続けるのだろう。
命を燃やして。
気晴らしに烟管でも喫おうと外掛に腕を挿しこんだ鴆は、玉佩のことを想いだす。母親が遺したものはこれひとつだった。いまとなっては虚しいばかりだ。
鴆は通りがかった橋から玉佩を投げ捨てようとした。
「いいのかしら、捨ててしまって」
鈴のような声に振りかえれば、輪倚に腰掛けた欣華皇后が純真に微笑んでいた。後宮外にいるはずのない華だが、鴆は軽く眉の端をあげただけだった。彼女が何処にでも現れることは、もとから鴆の知るところだ。
「お母様の望みだったのではないの? あなたが皇帝になることが」
「どこまで知っている」
「全部よ。だって、妓楼にいた毒師を妃妾に迎えるよう陛下に教えたのも、禁毒を造らせるように提案したのも全部、妾ですもの」
鴆が一瞬だけ、動揺をあらわにする。
欣華皇后が総ての首謀者だったのか。臆病な雕皇帝にしては豪胆な策だとは疑っていたが、裏で操っていたのが皇后だとすれば、腑に落ちた。
「貴方はいったい」
「ふふふ、さあ、なんでしょうねぇ」
化生と称されるものはいる。渾沌の帝も然り。白澤や窮奇の一族も同様だ。だが所詮は人に過ぎない。特殊な能才、異質な技巧を備えた、あるいは暴虐を振るっただけの。だが、皇后にだけは、ほかとは一線を画す異様さがあった。
(化生などというものがいるのだとすれば、こういうものに違いない)
皇后は嬉しそうに唇を綻ばせながら、鴆の瞳を覗きこんできた。
「ねえ、あなた」
虹を鏤めた万華鏡に鴆の姿が、映る。
「皇帝になるつもりはないかしら」
予想だにしなかった誘いに鴆は今度こそ、言葉を絶した。
「……つまらない冗談だ」
「冗談じゃないわ、妾はほんきよ」
皇后は胸を張った。彼女がなにを考えているのか、微塵も読めない。毒蛇に絡みつかれても動じない鴆が皇后の異様さには咄嗟に身を退きかける。
「皇太子として宮廷に迎えてあげましょう」
欣華皇后は袖を差しだす。袖に結わえられた鈴が微かに鳴って、噎せかえるような花の香が舞いあがった。強すぎるそれは、腐乱した花の悪臭とも等しい。
「あなたがちゃんと妾のいうことを聞いて、妾のために食事を調えてくれるのならば、ゆくゆくは皇帝にしてあげるわ」
「……食事、ね」
鴆は瞳の端を強張らせながら思考をまわす。
「それは昨今続いている、細かな紛争とも関係があるのか。戦線に遠征した時、貴方の姿を見掛けたことがある。長期間眠っていると偽っては、戦場に赴いているだろう?」
鴆の推察を肯定するかわりに皇后は唇を舐めた。
「ふふ、でもほんとうに喰べたいものは、ほかにあるのよ。あなたのお父様もそれだけは叶えられなかったの。あなたが喰べさせてくれると嬉しいのだけれど」
どうかしらと、誘惑される。
鴆は無意識に玉佩を握り締めた。
貴男が皇帝になるのよと、呪いのように繰りかえす母親の声が聴こえる。彼女は鴆を皇帝にすることが最たる復讐だと疑わなかった。
紫の眸の底でごうと昏い焔が燃えたつ。
唇の端がゆがみ、毒々しい微笑をかたちづくる。彼はひき結んでいた唇を徐に解いた。
強い旋風が吹きつけ、彼の声をさらう。
皇后だけがそれを聴き、華やかに微笑を重ねた。