98天毒の禍きたる
「――触るな、彼女は僕のものだ」
助けだすというよりは強奪するような腕に抱かれて、慧玲は張りつめていた緊張の糸が弛むのを感じた。蹌踉めき、鴆に縋りつく。
蜂は皇帝を取りまき、いつでも刺せるとばかりに牽制していた。皇帝は鴆と蜂とを順に睨み、眉根をゆがめる。
「貴様は風水師――毒師だったのか」
「違うね、僕は鴆だ」
鴆は毒々しく嗤笑して、腰に佩びていた装身具の珠を沓の先端で弾いた。鏘然として珠は響く。麒麟紋の玉佩に視線をむけた皇帝が眼を剥き、青ざめる。
「渓底に落とされた貴方の息子さ」
嵐が吹きつけ、雪は強くなる。紫電をはらんだ雲の塊がゆがむように渦を捲き、怒張する。昏い吹雪が鴆の髪を掻きみだした。張りつめた頬の表で細氷が弾け、睫毛を凍らせる霜で、滅紫の眼睛がひと際に昏くなる。
「敵軍を退けた時、貴宮の風水師に拝命された時にも顔をあわせたね。名乗ったこともあった。だが、貴方は結局、最後まで気づかなかった」
鴆の剣に蛇が絡みつき、牙を剥きだして毒を喀いた。剣の先端からほたほたと青みがかった致死毒が垂れる。
皇帝は顔を顰めながら、重い息をついた。
「そうか、貴様があの時の――毒か」
「毒、ね」
鴆が喉をのけぞらせ、嗤った。
熱のない嗤いだった。失望しかけ、もとから望みなどなかったことを理解して、自嘲するような。だが転瞬、彼は微笑を捨てた。
「慧玲……」
慧玲の濡れた頬を強張った指がかすめていった。
彼女は無意識に泣いていた。鴆が哀れだったわけではなく。無性に涙がこぼれてしかたがなかった。吹雪のなかでは涙が端から凍てついていく。
「慧玲、貴女は薬で毒を制すといったが、毒でしか制せない毒もあるんだよ」
毒を帯びた剣を振りかざして、鴆は皇帝を殺そうとする。彼女が痺れる指で、咄嗟に鴆の袖をつかんだ。鴆が瞳をゆがめて振りかえったのがさきか。
陰雲が紫に燃えさかり、弾けた。
落雷だ。
慧玲は刹那、現実を疑った。斯様な不運、禍患、厄難、起こってはならない天の循りだ。
雷が、皇帝の頭上に落ちた――
天の槍にでも貫かれたかのように皇帝は一瞬で絶命する。
雷轟が地を震わせた。
天の咆哮を想わせる凄絶な響きだ。訴えるは忿怒か。怨嗟か。韻々と拡がる轟きがいっせいに音を喰らってしまったのか、続けて帳が落ちるように静寂が敷かれた。
煙をあげながら、皇帝が後ろむきに倒れていった。
「天、毒」
慧玲が後れて声をあげた。
最悪が重なり、取りかえしのつかぬ禍となる――さながら命運を毒されるがごとく。
ああ、紛れもなく、これは。
天毒の禍だ。
最終決戦が意外なかたちで幕をおろして、いよいよクライマックスです。もちろん、ここからさらなる大嵐がきます。