10 風水師は毒をほのめかす
〈風水は万象を動かす〉
昔から語られる言葉だ。剋では実際に風水師の智慧が戦の勝敗を分けたり、噴火を制したという記録が残されている。もっとも巫覡の卜占や神託とは違い、風水は学問に属す。
万物に影響をもたらす風水を読破し、事をなすときにそれを取り入れるというのが正確な順序である。
よって風水師は宮廷でも珍重され、最高位では尚書、または弁官と称される六部の長官に匹敵する権限があった。
季節の宴を催す会場もまた、風水師が年毎の気候などを読み、適した場所を定めることになっている。風水は薬の効能にも影響するため、慧玲は調薬にさきがけて会場の確認にむかっていた。
現地では、大水路に張りだす宴の舞台が建設されているところだった。
水路の岸縁では雅やかな糸桜が風にそよいでいる。水鏡に綾なす枝垂の花は風柳で、春季の宴を開催するにふさわしい会場だ。
舞台のまわりには妃妾たちがいた。離れた処から舞台を仰ぎ、嬉しそうに囁きあっている。てっきり宴が待ち遠しいのかとおもったが、そうではないようだ。
「風水師さま、はやく降りてこられないかしら。もう一度御目に掛かりたいわ」
「端麗なだけではなく、敏腕の風水師なんですって。なんでも水難が続いていた土地に霊殿を建てて、禍を制したとか」
妃妾はそろって、ぽうと頬を紅潮させている。
後宮は宦官を除けば男禁制なので、宮廷の宦吏が訪れるというだけでも湧きたつ。
(そんなものかしらね……まあ、でもそれほど有能な風水師ならば、一度会ってみたいかも)
舞台は宴を催す隅中から日昳に最も日差しが差す処に建てられている。加えて風だ。南から北に抜ける春風の通り道にも重なるようになっていた。日と風。どちらも冬のあいだに衰えた心身にかかせないものだ。
素晴らしい手腕だ。だが完璧に調えられているようにみえるからこそ、違和を感じた。
慧玲は舞台を支えている柱に寄り、木の表に触れる。
柱は全部で九本。九は縁起の佳い数だ。嬪が定員九名なのもこの験担ぎからきている。
順番に木目を確かめていき、慧玲は違和感のもとにたどりついた。
(おかしい。ここだけ、逆木に組まれている)
木材に表れる模様にはかならず流れがある。材木になっても木の息吹はこの脈にそって循環を続ける。だが根があった方を真上にむけて柱を建てると循環が滞って、その家に暮らす者にも不調をきたす。いわゆる《木毒》に転ずるのだ。
優れた風水師ならば、気づかないはずはない。おそらくは木匠の落ち度だろう。
(知らせておかないと。……でも、不敬にあたるだろうか)
素人の小娘がよけいなことをいっては、風水師に反感をもたれかねない。
どうするべきかと考えていると、妃妾たちの喧々たる声があがった。件の風水師が舞台から降りてきたのだ。
腹をきめて振りかえれば、見憶えのある姿があった。鴆だ。
「僕の予想どおり、また逢ったね」
「鴆様だったのですか」
慧玲が想わず声をあげれば、鴆はからかうようにいった。
「僕が宴の地読みをしているのがそんなに意外だったかな。左丞相の命といっただろう? それとも宦官を追い払うためのはったりだと疑っていたとか?」
「いえ、後宮入りを許されている段階で練達の風水師であろうと……ですが、よもや春季の宴の風水を受けもっておられるとは想いませんでした。風水師にとって宴ほどに責の重い任務はございませんもの」
「祝いは、呪いに転ずる――か」
昔からの訓戒だ。実際に祝祭の時ほど皇帝が暗殺されたり奇襲があったりと、禍が重なるものだ。強い薬ほど処方を誤れば、強毒に転ずるのと等しい。
慧玲は部外者に聴かれぬよう、声を落として喋りかけた。
「お報せしておきたいことがございます。舞台の下部、最北東に建てられた柱が逆木に組まれていたように見受けられました。後ほどご確認いただければ幸いです」
不意をつかれたように鴆が沈黙した。よけいなことをいって気分を害させただろうかという慧玲の懸念をよそに、鴆は嬉しそうに瞳をゆがめた。水鏡に毒をひと雫、落とすように瞳の表に紫が滲む。
「敏いね、貴女は」
毒々しい紫がせまる。
鴆はすれ違いざまに身をかがめて、囁きかけてきた。
「けれども、敏さは時にその身を滅ぼすよ。緩やかにまわる毒みたいにね」
慧玲が息をのんで振りかえる。
(……まさか、わざと?)
瞬時に理解する。彼は舞台の調和が崩れるよう、故意に逆木を組みいれたのだと。
だが解せない。表ざたになれば、確実に風水師としての功績に瑕がつく。重刑に処される危険をともなってまで、なぜこのようなことをするのか。
「あなたはいったい」
「知らないほうがいいよ」
鴆は彼女の喉もとに人差し指を添えてきた。
ただ、それだけだ。されど蛇の牙が喉に喰いこんでいるように身が竦み、声もあげられなくなる。
「僕からもひとつ、貴女に報せておきたいことがあってね」
微笑みながら、鴆は横薙ぎに指を動かす。華の頚を落とすように。
「貴女の死を望むものがいる――殺せるものならば、いますぐに殺したいとね」
慧玲は日頃から疎まれ、敵意をむけられ続けている。だがそれは慧玲にたいする恐怖をはらんだものだ。殺意には程遠い。
「また、逢えたらいいね」
微笑を残して鴆は遠ざかっていく。緊縛を解かれたように力が抜けて、脚がよろめいた。なんとか踏みとどまったが、振りかえることはできなかった。
慧玲の頭に過った言葉はひとつだ。
(悔しい)
唇の端をひき結ぶ。
(このくらいで身が竦むなんて)
殺意など幼い頃から飽きるほどにむけられてきた。
皇帝の嫡子は絶えず、暗殺の危険にさらされる。姫であっても例外ではなく、宮廷に帰ってきたときに毒を盛られたり、旅さきで襲撃された経験もある。ゆえにいまさら殺意をむけられたくらいでは心は乱れなかった。
だが本能には抗えない。せまる死の予感に脚が強張り、喉は締まって、身動きひとつ取れなくなる。
(――せめて考えないと)
鴆はなにをたくらんでいるのか。
逆木で組まれた家に暮らすと、木の毒に蝕まれてじきに体調を崩す。だが宴に一度だけつかうくらいならば、木の毒の影響はないに等しい。皇后の暗殺等を考えているのならば、もっと確実な手段を取るはずだ。
(だとすれば、毒――ああ、そうだった)
宴にはすでに毒が差しむけられている。
毒の蜂蜜酒だ。
あれは水樒の蜂蜜を八年掛けて醸したものだ。
香りは八角に似ている。それもそのはず、八角の実がなる木は唐樒といい、水樒と同種なのだ。水樒は陸地ではなく、池や湖のなかに根を張り、春の終わりに花を咲かせる。葉から根、八角そっくりな種子に到るまでが猛毒だ。特に花蜜には強い毒性がある。この花から採蜜できるのは水銀蜂という有毒種だけだ。
これは猛毒だが、即死毒ではない。毒による呼吸困難、眩暈、全身の麻痺、悪心、低体温は接種後、すぐに表れるが、呼吸不全で死に到るまでには七日程かかる。死亡までに解毒することも可能だ。だが木の毒を増強するあの舞台で飲めば、全員ひと晩で命を落とすだろう。
そうなれば疑われるのは。
(いうまでもなく、私ね)
皇后や嬪を暗殺したとなれば、大陸で最も重く、残酷なる凌遅刑に処されるだろう。白澤という一族にも汚名が残る。
毒に気がついたときは、首謀者は皇后と妃嬪を暗殺して慧玲に罪を被せようとしているのだろうかと想ったが――そうではない。逆だ。敵は慧玲を殺すため、皇后と妃嬪を巻き添えにするつもりなのだ。
(なんて、猟奇じみた……)
そこまで考えて、知らず唇が綻んだ。
彼女がいまから為そうとしていることと、なにが違うだろうか。
慧玲は《毒》を告発するつもりはない。それどころか、毒であることを隠して、皇后と妃嬪にあの蜂蜜酒を飲ませようとしているのだ。
(誰かに知られて、取りあげられるわけにはいかない。だって、あの毒は)
雪梅嬪を救うことのできる、ただひとつの――薬なのだから。