賢者との約束
朝日が差し込む軍の陣営を背後に、剣聖テルマは長剣を地面に突き刺し仁王立ちをしていた。テルマの表情は険しく、その紅い瞳は遠方を見据えている。
「難しい顔をしてどうした? 何か気になる事があるのか?」
朝早く陣営の前に構えるテルマに何かを感じた将軍ゲミルが、テルマの横に並んで同じように遠くを見ようと目を細める。
「ゲミル……今すぐに軍を引いて、街で防衛を固めるんだ……」
ゲミルはテルマの弱気な言葉に驚いてテルマの方をみると、テルマの体が小さく震えている事に気付いた。昨晩テルマから聞いた昔の予感の話をゲルマは思い出す。だが、村が崩壊する予感を覚えた18歳の時のテルマと今の剣聖であるテルマでは、テルマの強さは桁違いに違う。今のテルマが震えるという事は、かなり危機的な事態が起きようとしているとゲミルは戦慄した。
「テルマよ……敵は何時ぐらいに到着する? そして、お前はどうする?」
ゲミルは軍略を練るためにテルマに尋ねると、テルマは首を振って苦しそうに言葉を選びながらゲミルに答える。
「おそらく一刻も時がない。軍略の才を持つお前が街の防壁を使いながら戦えば長期戦に持ち込めないか? 賢者レイフもいるし、王国の援軍を望むことができるかと……」
「それで、貴女はここに残って退却の時間を稼ぐつもりですか?」
テルマが突然耳に囁かれた声に驚いて振り向くと、唇が届きそうな距離に目をつぶったレイフの整った顔があった。
「そんな危ない事をテルマにはさせません。私が今すぐ貴女の不安を払拭しましょう。それができたら、私と結婚してください」
……この男は……こんな時に何を考えているのか?
テルマはレイフからの突然のプロポーズに困惑しつつも、顔が赤くなってくるのを感じて、何も言えなくなっていた。レイフは微笑んでゆっくりとテルマから離れると、ゲミルの前に移動し大きな袋を差し出した。
「ゲミル殿、援軍を作りますので、この袋の中にある種を将軍の兵を使って広く撒いてもらえませんか? 私の前方にお願いします」
「なにっ!……援軍を作るだと?」
ゲミルが袋を困惑しながら受け取ろうとした時、テルマがその袋をレイフの手から奪い取った。レイフが驚いてテルマの方に顔を向けると、テルマは少し赤くなっている顔をそむ向けて言った。
「この種を撒けば何とかなるんだな。それなら、私がやったほうが早い。そ……それに上手くいったら、さっきの話を考えてやる。剣技……ファルコン・スピード……」
テルマはゲルマとレイフの前から一瞬にして居なくなり、二人の目前では土埃を撒き上げながらテルマが種を撒く姿が展開される。レイフはテルマの行動に微笑むと、懐から2つの水晶を取り出し、それを両手で握って呪文を唱えだした。レイフの両手にある水晶を中心に小さな魔方陣が多数展開する様子をみて、ゲミルがレイフに尋ねた。
「おい、いったい何をするつもりなんだ?」
「ハゲ、邪魔! ちょっと下がって。びしょ濡れになりたい?」
レイフの代わりに返事をしたのは聖女候補のルイーザだった。ルイーザはゲミルを後ろに押しのけてレイフの近くに立つと、天に向かって両腕を広げ呪文を唱えだす。すると、ルイーザの両腕の先には巨大な魔法陣が展開され、天に向かって光が放たれた。その光の先からは大量の黒い雲が発生している。
「種は撒き終わったぞ?……って何をしようとしてるのだ?」
テルマが空になった袋を持って戻ってくると、大量に魔法陣が展開されているのをみて首を傾げた。テルマが上空を見上げると青空に雨雲の塊ができているのを確認して、ゲミルの傍に移動する。
「突然二人が呪文を唱え始めたが何をしようとしているのか分からん。それで何故テルマは俺の傍に来る?」
「ここが一番雨に濡れないと私の感が言ってるんだよ」
ルイーザは上空を見上げながら歌うように呪文を唱え続けていたが、その歌に終わりが迎えた。
「…………天の恵みを与え賜え……ブレスド・レイン」
突然、テルマの目の前を境にして滝のような大量の雨が降り注いた。そして、雨の滝を目の前にしてレイフが唱える。
「…………我が与えし仮宿を経て現出せよ……木霊召喚・トレント」
雨でスブ濡れの地面から植物の幹が伸び上がり、人の形を創ってゆく。だが、レイフの詠唱は止まらなかった。
「…………父なる大地の力により現出せよ……地霊召喚・ストーンゴーレム」
トレントの根によって泥上にかき混ぜられた地面から大小様々な石が積み上がりストームゴーレムが形成されていく。大量の援軍の召喚に見ていた兵士たちから歓声が上がったが、その様子を見ていたゲミルが呟いた。
「確かに兵数だけなら補えているかもしれない。だが、トレントは木であるから防御力は弱く、ストーンゴーレムは動きが遅い……これでは無理だ……」
だが、レイフの両手に展開されていた大量の魔法陣は召喚が終わったにも関わらず輝き続けていた。再びレイフが詠唱を始めたので、レイフに助言をしようと近づこうとしたゲミルは足を止めた。
「……2つの精霊の力を混ぜ合わせ、新たなる力を示せ! 召喚融合・トレントゴーレムアーマー」
レイフが呪文を唱え終えると、レイフが持っている水晶の一つから無数の光の糸がトレントとストーンゴーレムにほとばしる。ストーンゴーレムの体を形成していた石がトレントの体を包み込んでゆく。
「なるほど! 関節部をトレントにして体は硬いストーンゴレーム。これなら機動性を持った戦いが可能だ!」
ゲミルは欠点を克服した精霊の兵を目の前にして、思わず叫んだ。だが、テルマは自身の胸に手を当て苦しそに目を伏せた。
だめだ……不安は消えない……
テルマの視界に足が入り、テルマが顔を上げると優しい表情をしたレイフが立っていた。
「まだ、テルマの不安は払拭していないのでしょう? 大丈夫ですよ。これをゲミル将軍に渡せば……」
レイフは持っていた精霊と繋がっていないもう一つの水晶をゲミルに手渡す。ゲミルの持つ水晶とレイフの持つ水晶が共鳴し、精霊の兵の手から長い木の槍が生えてきた。
「軍略の才を持つゲミル将軍が一万近い軍勢を統制すれば……テルマ?」
テルマは涙を流していた。だが、その表情は微笑んでいた。テルマの予感が消えたのだ。
「ありがとう……レイフ……」
テルマの普段の厳しい表情とは異なり、その笑顔は誰が見ても美しいと感じるものだった。思わずルイーザは呟いた。
「師匠がテルマ様を好きになったのがわかった気がする……」
迎え撃つ準備が出来たことで安堵が流れる雰囲気を打ち破る様に、重苦しい圧が前方より感じられた。ルイーザはレイフとゲルマの前に立ち、魔法の防御壁を次々に展開する。
「剣聖を打ち破ったというのに、次は賢者が我に立ちはだかるか……」
天に響き渡る邪悪な声が聞こえたかと思うと、1万を超える魔族の兵が地響きをたてながら進軍してきた。スケルトンやオークだけではなく、リザードマンや大型のトロールが軍に含まれている。その中央には2つの頭と4つの手を持つ異形の魔族がトロールに担がれた神輿の椅子に座っていた。
レイフ……ごめんね。私の予感は2つあったの。一つは貴方が解決してくれた。もう一つの予感は、私か貴方のどちらかが死ぬ……これは払拭されていないの……
「おい、テルマ……あれはヤバいぞ……」
ゲミルは異形の魔族の姿に目を見張り、テルマは魔族の姿を睨みつけた。正しくは、異形の魔族の2つの頭部の一つ……表情がない頭を睨みつけていた。そして、テルマは長剣に覇気を纏わせて前に進み出た。
「アレクは決して油断をしていなかった……クリストフェル様を乗っ取っていたのか! 魔王マモン!」