第10話 恋を、してしまいそうだった……ッ!
私が城のホールに到着すると同時に扉が開き、外からの風を伴いながらカインが帰宅した。
風でボサボサになった髪を手櫛で整えていた彼は私の姿を認めると無表情から一転、大輪の向日葵に勝る笑顔を浮かべる。
趣味嗜好は変わっているが、知り合いを見つけて嬉しくなるなんてまるで犬のようだ。はやく喋りたくて早足になるところなんて––––
もはや走っているとも言える速度で一気に距離を詰めると長い両手で私を抱き締める。
抱擁ッ!
それは親しい間柄で行われるスキンシップである。
ぎゅうと背中に回した手に力を込め、身長差も手伝って彼の胸板に顔を押し付ける体勢になる。彼は私の頭部に額を寄せるとぐりぐりと押し付けた。
「ルチア! わざわざ迎えに来てくれたんだな!」
「––––⁉︎」
お帰りなさい、とかお疲れ様ですといった労いの言葉を言おうとした口から意味をなさない呼吸が漏れる。
彼の香水なのか、レモングラス特有の苦味を伴った爽やかな香りを鼻腔が捉える。
いきなり抱きしめられたという衝撃に体を硬直させたままでいると、ゆっくりと彼は腕の力を抜くと一歩下がる。
私よりも少し高い体温を失った肌は外気を敏感にキャッチし、鳥肌が立つ。
「君ともう少し話したいところだが、すまない! これから緊急で片付けなければいけない仕事があるんだ。これで失礼する」
「あっ、はい。それではまた今度」
目を白黒とさせながら無難に返答する。抱擁のショックから未だに立ち直ることなく、反射でヒラヒラと手を振って背中を向けた彼を見送る。
彼は名残惜しそうに何度も振り返りながら執務室へと歩き出した。
彼が角を曲がったことを確認し、セレナの肩を勢いよく掴む。
「セレナ、私しばらく部屋に篭るわ!」
「ルチア様っ⁉︎」
セレナの返事も待たず、スカートの端を摘んで走り出す。目指すのは私に割り当てられた自室だ。途中使用人にぶつかりそうになったが、寸前で向こうが回避してくれた。
ごめんね、使用人!
「ここなら安全ね!」
部屋に駆け込みんで後ろ手で扉を閉める。清掃の済んだ部屋は勿論、使用人を含め誰一人いない。
ズルズルと床に座り込んで顔を覆う。時間差で頰に集まった熱と早鐘を打ち始めた心臓が更に私を動揺させた。
「いやいや、ちょっと待って」
屋敷での扱いは確かにカイン・ジェラルド・リーコックの婚約者だ。
父のゲイザーもカインが『嫁に欲しい』と発言していたし、彼は私を迎えるために大金を王家に納めたはずだ。物珍しさか、家名に箔を付けるためか。理由は定かではない。
だが、往々にして貴族社会という血統主義に基づいたこの世界の婚姻関係に感情を持ち込むことがいかに無意味か、私はよく知っている。
惚れた腫れたのトラブルに巻き込まれるのは婚約破棄だけで充分だ。
そう思っていたはずなのに……ッ!
ぎゅっと目を閉じると彼の笑顔が目蓋の裏に張り付いている。ふわりと残り香がブラウスから漂う。
なんだか背徳的な感情を想起させるそれから意識を逸らし、両頬を叩く。
「危なかった……! あと3秒長く抱きしめられていたら恋に落ちるところだったッ!」
なによりも恐ろしいのは、抱擁されたことに嫌悪感を一切抱かなかったことだ。それどころか体が離れた瞬間、『まだ抱きしめていて欲しかった』なんて思ってしまった。
出会ってから僅か数日、言葉を交わしたのはさらに2時間にも満たない。彼はその短時間でいとも容易く人の精神に入り込んだ。
「カイン・ジェラルド・リーコック。部下が心酔するのも頷けるわ……!」
波乱を感じさせる新生活の幕開けに私は唾を飲んだ––––––––––––‼︎
◇◆◇◆
草木も眠る深夜。ランプの明かりが灯るダイニングルームに日付が変わったことを知らせる時計の音が響いた。
ラウンドテーブルにそれぞれカイン、オクタヴィアン、セレナ、そしてヘクターが時計回りに座っていた。
時計の音が止むと静寂に包まれる。重苦しさを伴ったその空気は耐え難い威圧を辺りに振り撒く。
顔の前で手を組んでいたカインが沈黙を破った。
「ルチアは俺の婚約者である、ということはこの場にいるみんなには事前に伝えていたな。今日というかもう昨日の話だが、国王陛下の後ろ盾もあって正式に婚約を結んだ」
カインが懐から手紙を取り出し、テーブルの上に置く。ミエリ王家の印が押されたそれを見たオクタヴィアンが椅子から立ち上がる。
「御婚約おめでとうございますッ! つきましては盛大にパーティーをッ!」
カインはほぼ叫んでいるオクタヴィアンを手で制し、座るように促す。彼は「失礼」と他のメンバーに謝りながら席に座り直す。
「婚約を発表し、差はあれど一年ほどで結婚式を執り行う。俺もそうしたいところだったが、どうも王宮の動きがきな臭い」
「もしやフレイハート伯爵令嬢でしょうか?」
カインの発言の真意を素早く見抜いたセレナがおずおずと質問する。
「ああ、そうだ。ご丁寧に『魔女』の祝福付きの男爵令息に子爵令嬢をこちらに送り込むつもりのようだ」
「みすみす迎え入れるんですか、旦那様?」
欠伸をしながらカインに質問を飛ばすヘクター。隣のセレナから肘鉄を食らうがびくともせず、眠たげに目を擦る。
ヘクターとセレナに苦笑を浮かべつつもカインは密偵から掴んだ情報を部下に共有する。
「書類を偽造してまで平民の商人に紛れ込んで来る計画らしい。俺が下手に動けばあちら側に攻撃する口実を与えてしまう」
「なるほどッ。それならば泳がせて情報を探るのですねッ!」
話が見えてきたオクタヴィアンが拳を握り、夜間というとこで控えめに叫ぶ。
「街の警備ついでに上官と俺たち下っ端騎士は件の令息と令嬢を監視しまぁす」
「むッ、お任せくださいッ!」
座ったまま敬礼するヘクターと立ち上がって背筋を伸ばして敬礼するオクタヴィアン。
「頼んだ。何かあれば教えてくれ」
話が終わり、椅子から立ち上がる。部屋を立ち去ろうとしたセレナをカインが視線だけで止まるように指示した。
「何か御用でしょうか、カイン様?」
言い淀んだカインは視線を左右を彷徨わせる。
「ルチアはなにか言ってなかったか?俺のこととか」
「口止めされておりますので、私からはお話できません」
「……そこをなんとか!」
「金貨二枚」
セレナの容赦のない金銭要求にカインが怯む。彼女の要求はざっくりと三週間分の生活費である。給料の半分でもある規格外の金銭だ。
「銀貨5枚」
「金貨一枚と銀貨3枚」
「金貨一枚で手を打たないか?」
「よいでしょう。ルチア様はカイン様のことを『彼以外に辺境伯は務まらない、よ。そしてこれは私の意見なんだけど、初対面の私に緊張させまいと気さくに振る舞われる、そんな優しいお方ね』と仰っていました」
ルチアの発言を諳んじるセレナ。それを真顔で聞きながらカインはふむ、と考え込む。
「まさかそこまで読まれていたとはな。やはり彼女は只者ではない」
セレナへの用件が済んだカインは懐から金貨一枚を取り出して彼女に手渡す。彼女は恭しく受け取るとポケットにしまい、部屋を退出した。
「前々から気の強い令嬢がいると気になってはいたが……。舞踏会での王太子に食らいつく様を見た時は恋を、してしまいそうだった……ッ!」
カインの脳裏に出迎えにきたルチアの姿が蘇る。
スカートを摘み、駆け寄ってきた彼女の姿を見た途端体感したことのない衝動に突き動かされて抱きしめたことを思い出す。
「あれは危なかった……! あと3秒離すのが遅れていたら司祭を呼んで結婚式を執り行うところだった……ッ!」
ルチアの射抜くような鋭い眼光が和らいだものへと変わる瞬間、ふっと微笑んだ彼女と一度目が合えばすぐそばに駆け寄りたくなるような、そんな得体の知れない魅力がある。
恐るべきはカインの知的好奇心を刺激する彼女の性格だ。繊細かと思えば図太く、大胆かと思えば慎重に立ち回る。
カインが王宮内でどのように噂されているかを知ったうえで、経営や防衛の手腕を褒める。
『王太子からの誘いを断り、カインとの婚姻を選ぶなど正気の沙汰ではない』と彼は確信している。
その一方で、矛盾した考えも彼は確信していた。
すなわち、先入観をも利用する彼女との婚姻は間違いなくリーコック辺境領にとって大きな利益につながる!
「ルチア・フォン・クロウハイツ。君はどれだけ俺を魅了する気なんだ……ッ!」
これから待ち受けるルチアという未知の存在にカインの瞳はキラキラと輝いた––––––––‼︎
あけましておめでとう‼︎
新年もよろしくね!




