萼
緊張で足がすくむ。
初めてオペに携わった時とは異なる緊張感が朝から全身を貪っていた。
二月十四日、バレンタインデー。
している俺に、大学からの腐れ縁かつ文乃の雇用主の夫である理央が嫌な笑みを浮かべて揶揄ってくる。
「研修段階で看護師つまみ食いしまくってた男とは思えねーな、だっさ」
「勝手に言ってろ。奥さん裏切ってるやつに言われたくねー」
更衣室で白衣を脱ぎスーツのジャケットを羽織ってから言い返す。
視界の隅に見えた苦虫を噛み潰したような表情でこちらを睨みつける男を一瞥し、この数日を振り返りながら更衣室を出た。
時間があれば一日に二度、三度と花屋に通って口説き続けた。
今日、話をしたかった。
今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日、何年かかっても良い。
もう迷わない。
その腕を掴まなくとも隣を歩いていてほしい。
時々目を合わせてキスをした、あの頃のように。
俺はもう、裏切らない。
二度と。
あらかじめ呼んであるタクシーに乗り込んで行き先を告げる。
その声が微かに揺れていることに気づき、震える掌に乗っている小さな箱を強く握りしめた。
*****
「ふーみーのちゃん、あーそびまーしょ」
ここ数日、雪穂さんが怪しい。
強制的に病院に連れていかれたと思ったら血の滲む肌用の薬を買ってくれたり、痩せていた頃に着ていたという服を何着もお店に持ってきてはくれると言う。
少し傷があるけれど使わないからとバッグをくれたり、誕生日プレゼントだと人生初のパンプスもくれた。
薬と服は正直とてもありがたかった。
薬のおかげかカサカサはかなり治ってきていて、それでもまた洗ってしまうから完全に完治とはいかないけれど以前と比べると別人の肌のようだ。
服もお下がりとは思えないほど保存状態が良く、素材もいいのか着心地がとても良い。
一週間ローテーションしてもまだ余るほど頂いたおかげで朝洋服を選ぶことに楽しみを見出せるようになっていた。
可愛らしい水色のバッグと中にクッションの入った高すぎないヒールの黒のパンプスはまだ使うことは無いけれど、いつか雪穂さんを食事に誘ってぜひ使ってみたい。
「さあ、出てきなさい文乃ちゃん。悪いことはしないから。どこにいるのー?」
従業員のプライベートルーム代わりになっている休憩部屋のカーテンに巻かれて姿を隠すわたしと、そんなわたしを必死に探す雪穂さん。
これは決して隠れんぼなんて可愛らしい遊びではない。
閉店一時間前、雪穂さんがおおきな紙袋を持って近づいてきた瞬間から、いつもは美しい花々に囲まれた穏やかな店内が見つかったらオモチャにされる恐ろしい鬼ごっこ会場と化した。
この一週間、毎日のように数回店に足を運ぶ陽くんは、今日、どうしても一緒に出かけて欲しいと言う。
雪穂さんの本質の話を聞いて前向きになろうとは思ったけれど、あまりにも進捗が早すぎるので心の整理が着くまでは頷きたくなかった。
なのに、昨日――。
『文乃。まだ返事出せないかな』
「……」
『そか。ま、また明日来るわ。仕事頑張れよ』
昔は凛々しかった眉毛が、珍しく下がっていたこの数日。
わたしの無言を肯定と捉えてくれたらしく、落ち込んだ様子で背を向ける。罪悪感はあるもののそれでもやはり、まだ、あの頃のことについて本音で語り合える自信がないのだ。
だがしかし、数日間わたし達の動向を見守ってくれていた雪穂さんが、その様子を見てついに爆発した。
『行きます。文乃ちゃん行くよね。行きます行きます。明日8時に迎えにきてください、必ず行きますから」
驚きでわたしも彼も何も言えずに突っ立っていると、彼女はわたしに向けて微笑んで言った。
『うちのアネモネ、もう咲いたよ』って。
それまではまだ一歩を踏み出すのが怖くて尻込みしていたけれど、わたしもアネモネになりたかったから
『はい……行き、ます』
そう答えた。
そして今日、いつもはわたし一人で店番が難しいので客足が途絶えたタイミングや閉店間際に配達に行く彼女が、今日はもう一人のアルバイトである真崎くんに店番をしてもらって少し早く配達に出た。
そして戻ったきた彼女の手には、大きな紙袋が二つ。
中身を見てからすぐさま逃げ出すわたしと、そんなわたしを捕まえようとする鬼ごっこが始まった。
未だカーテンの中、足音に耳をすませていると、突然カーテンが体を擦りながら離れていく。
「山田さん。店長が煩いから出てきてください」
そこには、ひたすら雪穂さんを宥めてくれていたはずの真崎くんが、疲れ果てた顔で立っていた。
「す、すみません……」
真崎くんの後に次いで休憩室を出ると、そこにはほっぺを膨らませて拗ねた様子でこちらを睨む雪穂さんが仁王立ちをしていた。
「す、すみません……」
その形相が怖いやら可愛いやら、わたしは表情こそは動かなかったけれど、内心思わず笑ってしまうと同時に一度、謝罪をせざるを得なかった。
*****
慣れないパンプスを履いて、雪穂さんから貰ったワンピースに雪穂さんから貰ったバッグを合わせる。
ざく切りだった髪の毛は、美容師の専門学校に通っているという真崎くんの手によって整えられ雪穂さんがメイクを施してくれた。
鏡を見ると、そこには今時風の女の子が立っていて、まるで自分ではないように感じてあちこち触っていたら「メイク落ちる!」と手を叩かれた。
「よし。約束の5分前!いい感じ」
高すぎないヒールは歩くことはできるけど、初めて履くものでついついお尻が出てしまう。
お尻が出るたびに雪穂さんに「ケツ!」と怒られ、わたしは困惑に当惑をミックスしてついに意識が混乱してきていた。
店内を五分間みっちり歩き回されていると、店の入り口から笑いを噛み締めて陽くんが入ってくる。
恥ずかしさからか目を合わせられずにいるわたしに「行こうか」と声をかける陽くんと「う、うん」と頷くわたしを、含み笑いを浮かべた男女が見ているけれど、わたし達は彼らの存在をまるで無いものとして店を出た。
陽くんに連れられてやってきたのは、前回連れていかれたような割烹料理店でもなく雪穂さんに連れて行ってもらったお洒落なカフェバーでもなく、こじんまりとした焼き鳥屋さんだった。
中に入るとテーブル席はすでに埋まっていて、人の居ないカウンターに二人並んで座る。
「食べ物は俺が注文していい?」
「あ、うん」
「飲み物は?」
「じゃ、じゃあ烏龍茶」
「了解」
手慣れた様子で店員に注文をしていく陽くんの声を聞きながら、炭火で焼かれている焼鳥の匂いに心を踊らせる。
……良い匂い。
「仕事はどう?慣れた?」
匂いにつられ過ぎて、注文が終わっていることに気づかなかったわたしは、突然振られた話題を頭の中一周させてようやく返事をすることができた。
「まだ。一人じゃ店番も出来ないの。雪穂さんと真崎くん頼りです」
「そっか。早く慣れるといいな」
「う、うん。頑張ってるところ」
「お、おう」
正直、話が全く盛り上がらない。
それはそうだ。
10年というブランクはそう簡単には埋まらない。
相手もそれを感じ取ったのか、気まずそうに酒を煽っている。
そのうち、料理が着々と目の前に並べられていき、全てが揃うまでにわたしの胃は満腹感を訴えていた。
話題が見つからないから食べ続ける、そんな空気に包まれるわたし達なのだった。
それから暫くして、飲むお酒を焼酎に変えた陽くんは意を決したように口を開く。
「俺、随分遠回りしたから。もうはっきり言うけど」
「うん」
「好きだよ」
「うん……ん?」
勢いで相槌を打ったけれど、一瞬聞こえた言葉はそのまま流れてわたしの耳には残らなかった。
「好きです。もう一回、付き合ってくれないかな」
今度は目を合わせて言われる。
真摯な視線を浴びせられるけれど、わたしの心はそれどころじゃなかった。
「なんで……」
「ん?」
「陽くん、わたしのこと……嫌いでしょう?」
気持ち悪いって言ったじゃない。
挨拶返してくれなかったじゃない。
他の人、抱いたじゃない。
なんで、好きとか言うの。
「うん。昔、本当に嫌いだった」
ほら。
「気持ち悪いって、言ったじゃない」
「うん、言ったね」
ほらね。
「ずっと無視……してたじゃない」
「うん。無視してた」
やっぱり。
じゃあ、
「どうして……」
?
「過去のことを今俺から聞いて、全部信じてくれるの?」
「……そんなの……でも、まずは、聞きたい」
「わかった」
*****
目の前に、手の届くところに、居る。
その幸せを噛み締めて、
好きだと伝えた時、目を見開いた文乃はそのあと直ぐに、悲しそうに「なんで」と言う。
また俺が同じことを繰り返すと、そう疑っているのかそれとも――。
そんな文乃を今すぐに抱きしめてもう離さないと叫びたかった。
湧き上がる感情が涙として溢れてきそうになるのを堪えて、俺は過去の自分の弱さを懺悔するために口を開いた。
「小さい頃は、正直後ろを付いてくる文乃が嫌いだったよ。鈍臭いし何言ってもヘラヘラしてるし泣き虫だし。」
「うん、知ってた」
「中学になると先輩とか同級生とか、ぶっちゃけ文乃より綺麗どころが寄ってきて、余計に女の幼馴染っていう存在がめんどくさかった」
「うん、これも気づいてた」
「高校に入ったらなんか文乃が首席で合格してて、入学式で壇上に上がったのを見た時はイラっとした。それからはテストのたびに、自分の名前より先に文乃の名前を探したよ」
「あの頃は……すごく勉強したから」
「高校二年の時」
高校二年生、俺たちの人生を狂わせた始まりの日。
文乃も緊張をしているのだろうか。その単語を聞いた瞬間に、ごくり、と幻聴が聴こえてきそうなくらい喉を鳴らして唾を飲み込むのが目に入った。
「進路のことを考え出した時、俺とにかく文乃から離れたかったから、北海道の大学に決めた。文乃には言わずに、目の前から消えたかった。
そしたら、文乃から告白された。
文乃と付き合って、俺に夢中になって勉強が手に付かなくなればいいと思った。自分でも驚くほどに優しくして、文乃の頭の中が俺だけになって、そして俺がいなくなった時落ちてしまえと思った」
気づけば、文乃はもう、相槌を打たなくなっていた。
「でもいざベッドの上で文乃と一緒に居た時、突然気持ち悪くなった」
その代わりに、唇が震えているのが分かった。
「……初めてだったんだ。それまで色んな人と関係を持ったけど……。噛み付いて、痛くして、上から下まで全部俺の中に溶け込んでしまえば良いと思った。湧き上がる欲望を抑えられなかった。顔を見るのもあの頃はきつかった。閉じ込めて、部屋から一歩も出さないで、ひたすら俺だけのものにしたかった。
怖かった。
そんな自分と、俺をそうさせる文乃が、とにかく怖かった。突き放す術しか持たなかった。子供だった」
震える唇をぎゅっと閉じて、目から溢れ出る涙を止めることもせず、文乃はただ俺を見上げていた。
「文乃が、俺の取り巻きに殴られたりしてるのは、うすうす気づいてた、でも助けなかった。助けて目を見て触れてしまったら、またあの恐ろしい感覚に苛まれると思ったら、俺は文乃に近づくことができなかった。
でも、今思えばこんなにわかりやすいのに、結局文乃が目の前から消えてからじゃないと自分の気持ちに気づけなかった。卒業式に、きちんと想いを伝えて、大学卒業を待ってほしいって言うつもりだった。そのまま会えなくなるなんて思いもしなかった。
それから十年だ、他の女性と付き合ったこともあるし一晩共にしたこともあるけど、いつも文乃を重ねてた。
今度会えたら、俺の中の残酷な部分を前面に出してでも、もう手放さないと誓ったよ。まさか病院で、自ら網にかかるとは思いもしなかったけど」
かかった。捕まえないと、と。
俺のそばにいることで、きっと辛い想いばかりをしたから逃がしてあげないといけないのに。
俺はどこまでもずるい自分を嘲笑しながらもその口を止めることができない。きっと彼女は俺を受け入れる。そんなことまで計算して、あの頃に戻りたいと言えば俺の元に戻ってくることを分かっていながら、俺は逃す道を選ばない。
残忍かつ残酷な俺の恋。でも仕方がない、君がそうさせた。
手に入れたい。手に入れて、今度こそ頭の中を俺でいっぱいにして、もう簡単に目の前から消えないように鎖で繋いで――
「好きだよ。ずっと好きだった。小さい頃からずっと。天邪鬼でガキだったから、好きって感情を嫌いに置き換えてたけど、もうあの頃とは違う。守れる。支える。だから、もう一度俺と付き合ってほしい」
目の前で焼き鳥を焼く大将が緊張の面持ちでチラチラと文乃を見る。
全て言い切ったけれど、ただ涙を流すだけの文乃は何も返してこない。
酒盛りで賑わう店内で、ここだけが異様な雰囲気を放っていた。
「気持ちは有難いけど……ごめんなさい」
五分ほどの時間が空き、大きく深呼吸をして涙を細い指で拭いながら囁いたその返答は、俺が予想しなかったものだった。
「えっ、あぁ……ダメ……か……」
「正直、今日そんなお話だと思ってなかったの。気持ちの整理もつかないし、それに……わたし、汚いから」
「汚くなんて……気持ち悪いって言ったのはさっきも言った通り文乃のことじゃなくて……っ」
「あの頃……、わたしが殴られるだけの虐めを受けてたと思ってるでしょ。違うよ。違うんだよ。わたしの身体も、わたしの制服も全て、すでに他の人が触れて、他の人のもので触れられて……」
胃を突然思い切り殴られたような衝撃が走り、込み上げる吐き気を慌てて抑える。
「汚れてる」
視界が真っ暗になるとはこういうことか。
俺のせいで、俺のエゴで、真っさらだったあの肌も何もかもが。
「そ、れ……ど、どういう」
「でも、耐えるつもりだったの。恋人は無理でも、また幼馴染として一緒に笑いあいたくて。血が出るまで殴られても、アザが消えないくらい蹴られても、全身から他の人の匂いがしても、話しかけるのだけは止めるつもり無かった。けど、わたしがトイレで男の人たちに囲まれてる時、陽くんは他の人を抱いてた」
文乃の顔が歪む。決して彼女が顔を歪ませているわけではない。
ただ、俺の視界が歪んでいるだけで、彼女は無表情だった。
「辛かったよ。耐えられる、って思ったのに。それを見た時、ポキっと簡単に折れたの。もう諦めようって決めて。話しかけるのをやめて、あなたの視界に入らないように存在感を消す毎日だった。でも、虐めはなくならなかった。一度火がついたららなかなか消えないんだよね」
この話を淡々と話す、淡々と話せるようになる十年の年月は、彼女からどれだけのものを奪ったのだろうか。
以前から気になっていた。所々に見える傷跡は、おそらく彼女が自分でつけたものだ。他の人の匂いを消そうと、何度も何度も洗ったのだろう。血が滲んで痛くて堪らなくても、きっと洗い続けたのだと思った。
「じゃあ。俺を許してくれるまで、待つよ」
「待たなくていいよ。今日、聞きたい話全部さっき話してくれたから満足。気になってた。なんで付き合う?って言ってくれたのか。それを聞きたかった。聞いてスッキリして、この初恋を終わらせたかった」
「文乃……」
「終わりにできる気がする。わたしも好きだった。ずっと好きだった。二十八年間、忘れたことなかった。これで、もう、お互い終わ……」
「――終わらないよ」
終わらせない。絶対に。
最終通告をされる前に、被せて言葉を奪う。
彼女の目は枯れていて、もう涙は流れていなかった。
その代わりに、俺の目から流れる涙が彼女の姿を濡らしていく。
「待つから。ずっと待つから。だか……ら……っ」
ダサい。かっこ悪い。
嗚咽がかき消していく作り上げた自分。
「おねがっ、好っ……きで……いさ、せて」
「今更……」
「好きだよ。好きっ、なんだよ。どう……しようも、ないんだよ!」
消えてしまいそうに脆そうに見えて強い、そんな彼女の心を壊したのは俺だった。
どうすれば繋ぎ止めておけるだろうか。
どうすればその傷を埋めてあげられるだろうか。
体だけ大人になった。こんな時にどうすればいいのか分からない。
「姉ちゃん、こんな男泣きさせて罪な女だねぇ」
「いいじゃねぇか!どうしようもねぇくらい好きなんて、最高の口説き文句だぞ」
「まずは受け入れて、ダメになった時お別れすりゃいいんだよ。まだ若ぇんだから」
「俺にもこんな時あったなぁ」
「お前見合い結婚だろ。ねーだろ」
カウンター以外、埋め尽くされていた店内。割と大きな声で気持ち伝えてりゃ周りにも聞こえる。
切羽詰まった俺の声が聞こえたのか、アルコールの回った客たちが口々に文乃に自分の意見を吐く。
皆の視線がこちらを向いている。
「……ズルイよ陽くん」
「……え」
「こんなところでダメって言ったら、楽しい雰囲気壊れちゃうよ」
「あ……うん。ご、めん。ズルイ……よな、俺」
「ズルイ。ズルくてひどい。嘘つきで、天邪鬼で……」
「うん、うっ、ん。ごめん。ほん……とっ、ご、め……」
「泣き顔が可愛くて……」
「……ふみ……」
「笑顔が優しくて……」
「ふみ、の……?」
「……わたしの、好きな、人」
「文乃……っ!」
思わず手が伸びる。
俺には分かった。
ほんの僅かに口角が上がった唇は、たしかに笑みを浮かべていた。
その頭に腕を回して胸の中に閉じ込める。
俺の背中に申し訳程度に回された文乃の腕を感じて、声にならない喜びが嗚咽をを大きなものへと変えていく。
子供のように泣きじゃくる俺と、そんな俺の胸の中でじっとしている文乃、そんな俺ら二人以外の客が次々と祝いの言葉を口にする。
やっとのことで文乃を離すと、顔を赤くした文乃はすでに無表情に戻っていたけれど、でも醸し出される雰囲気は、もう前の文乃とは違かった。
文乃は、「陽くん、泣き顔ブサイクで可愛い」と言いながら俺の頬を伝う涙を拭ってくれて、その後恥ずかしそうに俯く。
幸せに浸っている俺の目を覚ませたのは大将の「ごほんっ」というわざとらしい咳払いで、俺と目が合った大将は日本酒の一升瓶をカウンターにドンっと置き一言、
「長谷部くんよぉ。お前らのせいでさっきまでは変な雰囲気で酒が不味くなった客もいるだろうよ。追い出してやろうか迷っちゃって迷っちゃって。怒ろうとしても、お前らの後ろの客どもが目で止めてくるもんだから困っちったよ。ま、これ一本入れてくれりゃ許してやる」
一本で諭吉が二枚飛んでいくその日本酒を見せつけながら、大将は歯を見せて悪い笑みを浮かべる。
「入れます、すみませんでした」
その言葉を待ってましたとばかりに大将はそれを開けて、後ろの客に向けて響く声を轟かせた。
「そこの若造がお詫びに入れた酒だ。飲みたいやつは飲め」
その言葉を皮切りに湧きに湧く店内。
こちらにやってきて肩を組みながら説教する人やそれを止める人、恋愛が成就したばかりの雰囲気とは程遠い空気だけれどそれが逆に有り難かった。
結局一升瓶が開くまで大将と客たちに飲まされた俺たちが店を出たのは閉店間際の十一時前だった。
風に当たりたいと言いながら、文乃の暮らす花屋まで送る道すがら。
もう一度求愛を試みた。
「文乃、何度も言うけど。好きだよ」
「うん、わかってる。」
もう一度、付き合ってほしいと言おうと口を開くが、その口は文乃の手によって封じられて、それ以上言葉を発することができない。
やはり、ダメなのか……。
「……付き合う?陽くん」
十年前、俺が文乃に言ったように、文乃が俺の顔を覗き込んで聞いてきた。
「正直。今も終わらせたいって思ってる。けど、やっぱり陽くんがいいな、とも思ってる。今回は後者に賭けてみようかなって」
「い、いいの?」
「付き合える自信があるって顔、最初してた。やっぱり想定外の事態に弱いね」
バレてた。計算だらけだった俺のこと。
「バレてたのか」
「わたし、陽くんが思ってるほどいい子じゃないし。実は結構鋭いんだよ。女だから」
「女の勘?」
「そう」
「参ったな」
十年前より暖かい二月十四日、紆余曲折した俺達はやっとスタートを切る。
差し出した手を握り返してくる手は変わらず細くて冷たいけれど、不思議と温かさを感じる、そんな夜だった。
まだ終わりません。