蕾
初日、歓迎会でご馳走してくれたものを大方トイレにさよならをしてしまったわたしを、今もなお優しく時には厳しく受け入れてくれているこのお花屋さんで働き出してそろそろ一週間。
花の名前から始まって教わることが多すぎて全てが勉強の毎日を送っている。
夜は雪穂さんから借りた花辞典と睨めっこして、昼間は水揚げ作業や水換え作業、そして接客についてひたすら叩き込まれる。
定休日である火曜日と、もう一人のアルバイトの大学生が来る日曜日がわたしの休日だけれど、結局やる事もないので家で勉強してばかり。
人生は勉強だと言うけれど、まさかこの歳になってこんなに勉強漬けになるとは……。
「文乃ちゃん、明日お店定休日だし今日良ければうちでご飯とかどう?」
とても忙しかった月曜日。
まだ一人だと販売くらいしか出来ないので、業務後ギリギリに配達に行って帰ってきた雪穂さんに声をかけられる。
「今日旦那が当直で帰ってこないから」
一瞬、ほんの一瞬雪穂さんの表情が曇ったことが気になったけれど、すぐにまたいつもの笑顔を浮かべたので恐らく気のせいだろう。
どちらにせよ帰っても勉強するだけだし。
食事代浮くし……、やましい気持ちを押し殺して、
「お邪魔します」
と返答した。
「おっ……きい……」
商店街から車でしばらく移動し、市の中心部から離れた住宅街に雪穂さんのお家があった。
お店の建物もかなり大きいけれど、それに負けず劣らずこの家も大きい。
広い庭には花壇もあるけれど、花は一本たりとも植えられていないようだ。その代わりに、庭の隅に一つだけ鉢植えがあって、そこからは蕾をつけた茎が伸びていた。
「これ、なんの花ですか」
「なんだと思う?」
「んーと、この時期に蕾を付ける花……んー。ごめんなさい、分からないです」
「それ、アネモネっていう花なの」
「アネモネ……ですか」
一人で庭の隅で咲こうと頑張っているこの花が、可哀想で。
でそれだけではない力強さも感じる。
「アネモネはね、色によって花言葉が違くていつくかあるんだけど。アネモネ、っていう花そのものの花言はね……」
雪穂さんが、玄関に向いていた足先を鉢植えの方向へ変え、そのまま歩いて行きしゃがみこむ。
あんなにいつも明るい人なのに、その背中からは明るさが感じられなくて。
どう言葉をかけていいか分からず、わたしはただ言葉の続きを待つことしか出来なかった。
「この子達の花言葉は、消える希望、儚い恋」
「はかない……こい……」
「そう。で、この紫のアネモネの花言葉は、あなたを信じて待つ」
「信じて待つ……」
「白のアネモネの花言葉は希望、赤いアネモネの花言葉は君を愛す。蕾のままだと悲しい意味しかないけど、花が咲いたら明るい希望が見えるの」
「きぼう……」
立ちすくんでオウムのように繰り返すわたしの方を振り向き「いつか文乃ちゃんのアネモネも、咲くといいね」と言って彼女は玄関に向かって歩き出す。
わたしの蕾が咲く、そんな日が来るのだろうか。
しばらくの間、いつか咲くその蕾から、わたしは目を離すことができなかった。
*****
リビングに入ると、雪穂さんが既にキッチンで料理を始めていて、役立たないとは分かりつつも手伝いに向かうけれど。
「ああ、いいのいいの、簡単なものだからすぐ出来るし、テレビでも見てて」
と言われてしまって、かと言って勝手にテレビを付けるのもなんだか申し訳なく、ソファに座って真っ暗なテレビの画面とにらめっこをする。
料理を運んできた雪穂さんは、そんなわたしを見て吹き出し、「どんだけ控えめなの」と笑いながらテレビを付けてキッチンに戻っていく。
大きなテレビの画面を見てはいるけれど、先ほどの雪穂さんの言葉が頭から離れなくて、テレビから聞こえる音なんて耳には入ってこない。
頭の中を駆け巡る雪穂さんの声が遮られたのは、雪穂さんが隣で缶ビールを開けたプシューっの音に驚いてからだった。
「何度も声かけたのに、全然気付かないんだもん。先に開けちゃいました。はい、これ文乃ちゃんの」
雪穂さんは左手に自分のビールを持って、右手に持ったチューハイと書いてある缶をわたしに向けて差し出している。
軽く頭を下げながらそれを受け取って、軽く乾杯してから渇いた喉を潤した。
帰宅後三十分程度で作ったとは思えないほどの料理がテーブルを埋め尽くしている。
不思議そうにそれを眺めていると、その視線に気づいたのか雪穂さんが理由を教えてくれた。
「昨日ね、結婚記念日だったの。でも帰ってこなくて、料理だけ余っちゃったから」
旦那さんは陽くんと同じ病院勤務だと、確か陽くんが言っていた気がする。
大学病院だと救急とかもあるし、きっと夜も忙しいのだろう。
「さ、食べて食べて。花屋の仕事は体力勝負だから、いっぱい食べて筋肉つけて!」
前回チーズやミートソースなどで気分を悪くしたことを考慮してか、わたしの取り皿に野菜や鶏肉などを中心に取り分けてくれる。
ありがたい気持ちをうまく表現出来ない悔しさで、ただ、受け取った取り皿の鶏肉を自分に見立ててフォークを突き立てた。
テレビのお笑い番組を見ながら笑い声をあげていた雪穂さんが突然、わたしの顔をじーっと見てくる。
どう反応すれば良いのか、困惑しながら見返す。
「文乃ちゃん。なんで笑えなくなったの」
お酒が入ったからか頬を赤く染めて射抜くようにこちらを見てくる目から逃れられない。
飲み始めてから二時間、アルコール初心者のわたしでも飲みやすいチューハイのおかげて、わたしもかなり飲んだ。
だからだろうか。
誰にも話してなかったのに。
あれから十年、わたしは初めて、あの時の話をするために口を開く。
「好きな人が、居たんです」
わたしが話し出すの同時に雪穂さんは視線をテレビに戻し、テレビの音量を下げた。
かすかに聞こえるテレビの音と自分の声が混ざり合う。
「小さい頃からずっと好きで、大好きで、ずっと追いかけてました」
わたしを置いていく後ろ姿を追いかけたあの頃。
時々止まってくれて、わたしを待ってくれていたことを知ってる。
「幼馴染だったからずっと一緒で。泣いたりすると、親じゃなくてその人が真っ先に気づいてくれたんです」
優しくて、暖かくて、でも、
「でも、本当は、その人はわたしのこと嫌いだったと思います」
「……どうして?」
「勘、ってやつ、ですかね。時々、感じてました。睨むように見られてる視線を。わたし小さい時からどんくさくて、しょうがなく面倒見てくれてたんだろうな、って分かってました。でも気付かないふりをしてました」
気付いて、確認して、もし本当にそうだったら、離れないといけない気がしたから。
見ないふりをして、知らないふりをして、無邪気な子供であることを利用して、また追いかける。
「高校二年の時に、その人が北海道の大学を受験するってたまたま職員室で聞いたんです。その頃、わたし達の間にはもう会話はなくて。廊下ですれ違ってもお互い視界にも入れない、そんな状態だったから、どうせ振られると思って、伝えて終わりにしようと気持ちを伝えたんです」
前日の夜は、渡すチョコレートを作るのに徹夜した。
バレンタイン、かつ二人の誕生日、最後に一言でも良いから話がしたくて。
心を込めて、丁寧に、大切に、作りあげた。
「ダメだと思ったのに、付き合う?って言ってくれて、思わず吃っちゃって……でも、付き合う!って返したんです。それからはもう、それまでの会話の無さが嘘みたいに、とにかく大切にしてもらいました」
あの日までは。
「春休みに彼のご両親が二人とも出かける日があって、部屋に誘われたので、まあ勇気出して行ったんです。案の定そういう雰囲気になったんですけど……ダメでした」
「ダメっていうのは……文乃ちゃんが?」
――ごめん、
「気持ち悪い、帰って。って、言われました」
「……」
「でも別れようとは言われなかったから、簡単に手放せなかったんです。おはよう、また明日、毎日毎日声をかけて、でも、もう見てもらえませんでした」
今日こそ。
今日こそ。
明日になれば。
明後日が来れば。
「それが原因だと思いますけど、ひどい虐めが始まりました。でも、どんなに殴られて蹴られて水をかけられても。どんなにトイレの床に押し付けられても……汚されても……」
どんなことでも、
「いつかまた、最後に一回、また目が合うなら、耐えるつもりでした」
「……耐えられ、なかった?」
「……はい。その人が、他の人を抱いているところを見てしまって。あぁ、わたしじゃなかったんだ、って思いました。わたしは彼にとって、気持ちが悪い存在だったんだと……」
苦しい。
悲しい。
つらい。
わたしは――、気持ち悪い。
「嫌われているって、分かっていたはずだったんです。なのに、優しくされたらまた期待して。でも、本当は気づいてました。好きって言われたことなかったんです」
一方通行だった。
昔からずっと。
本当の意味で、視線が交わることなんてなかった。
わたしが勝手に、交わったと勘違いしただけで。
貴方はずっとわたしの向こうに、わたしではない誰かを見ていた。
「笑えなくなったわけではないんです。虐めで友人も居なくなって、その人に声をかける時だけ、わたしは笑ってました。でもそれも辞めてしまうと、笑うことがなくなりました。笑い方を忘れた、という方が正しいかもしれません。どこの筋肉を動かせば良いのか、どんな時に笑えば良いのか、分からないんです」
話し終えた時、手に持っていた缶の上には、わたしの頬を伝って流れていく涙が溜まっていた。
雪穂さんはそっとその缶をわたしの手から取ると、「飲んで」とお湯が入ったコップを差し出してきた。
暖かいお湯が喉を通っていく。
不思議だ。
言葉にしただけで、少しだけ心につっかえていたものが取れた気がした。
「……タバコ吸って良い?重たい話聞いてたら吸いたくなっちゃった」
テーブルの下から灰皿とポーチを取り出した雪穂さんは、わたしが頷くのを見てタバコに火をつける。
そして、それまでの真顔から、またいつもの笑顔を浮かべた。
「ねぇ、文乃ちゃん。文乃ちゃんから見て、わたしってどんな人に見える?」
突然の質問に、目を瞬かせる。
涙で濡れた頬をハンカチで拭いてくれる雪穂さんを見て、
「優しくて、笑顔が素敵で、明るくて、気遣いがすごく出来る……方だと、思ってます」
と答える。
「でしょ?自分で言うのもなんだけど、大体の人のわたしに対する認識ってそれなの。でも本当にそうか、と言われれば、答えはNOよ」
わたしの頬を拭ってくれていたハンカチをわたしの手に乗せて、再び視線をテレビに移しながら口から煙を吐き出す。
「……わたしは、二人の人間の人生を狂わせてしまっている、悪人。一人は命を落として、一人は望まない人生を歩まざるを得なくなった。全部わたしの我儘のせい。あ、犯罪とかじゃないけど」
なぜ今そんな告白を……?
いまいち話が見えなくて、困惑を隠さず表情として出す。
そんなわたしをちらっと見てからまた笑顔を咲かせた、自分を悪い人だという目の前の女性。
「人間の本質って、そう簡単には分からないってこと。わたしが表に出さない裏の自分を持つように、文乃ちゃんの思い人も文乃ちゃんには出さなかった裏の本質があったかもしれない。気持ち悪いっていう言葉は、文乃ちゃんのことを指すんじゃなくて他の意味が隠されていたかもしれない」
言葉の間にタバコを咥える様子がひどく手慣れている。
吸い終わった吸い殻を灰皿に押し付けて火を消す。
ふいに、とても良くしてくれた工場長を思い出した。
彼にも、わたしに出せなかった本質ってものがあったのだろうか。
「これ、綺麗だと思う?」
ソファから立ち上がった雪穂さんの手には一冊の本があって、その本の中から取り出したのは押し花のしおりだった。
白に縁取られた赤い花。とても綺麗だ。
「それ、さっきの庭のアネモネ。花びらに見える部分はガク片って言って、通常は花びらを支えたり蕾の時に保護する役割なの。でも、アネモネは花びらがなくてガク片がまるで花びらのようになってる。これが、言われないと分からないアネモネの本質。花だって隠してんのよ?人間なんてもっと複雑なんだから、まだ見えてない部分、たくさんあると思うし。多分死ぬまで、人間と人間なんてお互いの全てを知りえやしないんじゃないかな」
本質。
そんなものが、彼には本当にあるのだろうか。
誰よりも側にいて、誰よりも見つめていたわたしが知らない彼が、本当に存在するのだろうか。
分からないけれど。
きっと、見つけても、わたしを嫌いなことに変わりはないだろうけど。
けれど。
わたしの知らなかった彼を知ることで、あの時の行動の理由が少しでも分かれば。
過去に囚われて前に進めずにいるわたしを切り捨てられるかな。
陽くんのことは、きっと陽くんと向き合わないと分からない。
だけど、今はっきり分かることがある。
「あ、あの。……本質については、正直まだピーンときてません。でも雪穂さん。わたし、やっぱり雪穂さんは優しくて、笑顔が素敵で、明るくて、気遣いのできる人だと思います。そして、雪穂さんの本質は、悪いところじゃなくて良いところだと思うんです」
押し花を撫でる指がどんなに優しいか、あなたは気づいていないでしょう?
雪穂さん、あなたの本質、たしかにわたし分かっていないかもしれない。
だけど、絶対に悪い人ではないと思うから。
時間が許すのであれば、ゆっくり見つけていきたい。
自分を悪人だと言う、あなたの良い本質を。
それから――、
「今は勇気が出ませんけど、いつか、彼の本質も見つけてみたいです」
見つかるだろうか。
隠すことが得意な彼だから。
雪穂さんのおかげで、完全ではないけれど心の靄が少しずつ晴れてきた。
まだ笑顔はすぐに作れないけれど、精一杯のありがとうを伝えようと雪穂さんと向き合って立つ。
けれど、わたしが口を開くより先に、彼女の口が動いた。
「長谷部 陽ねぇ。あの子、なかなか執念深いと思うから、苦労するね。文乃ちゃん」
「……えっ、陽くんじゃ、違くて!いや違くはないんですけど、あの……」
ニヤニヤとビールを飲みながらわたしの反応を楽しむ。
冷めきったお湯が冷やしたコップを手に取り、今もなおニヤニヤとこちらを見続ける雪穂さんの視線から逃れるために慌てて飲み干した。
が、焦りすぎたのか咽せて咳き込むわたしの背中をさすりながら、今度はゲラゲラ声をあげて笑う雪穂さんは、やっぱり少しだけ悪人かもしれないと思った。