葉
「お世話になりました」
誰もいない部屋に向かって、頭を下げる。
昨日、一月三十一日、わたしは工場で最後の仕事をした。
なかなか仕事が見つからなくて困っていたけれど、運良く住み込みでも良いと言ってくれた職場を見つけて、ついに今日、十年暮らした寮を出ることになった。
電話で悠人に話したら「なんでもっと早く相談してくれなかったの?」なんて怒られてしまって。
相談したって出来ることなんてないくせに、と少しむくれていたら、
「大学辞めて俺が働けば」
なんてのたまうものだから、つい声を荒らげて叱ってしまった。
素直な悠人は、小さくごめんと呟いて、「体には気をつけてね」と電話を切った。
小さなダンボール一つと小さなキャリーバッグに収まってしまう荷物を持って、母や悠人と暮らした部屋を改めて見回す。
あの窓際で三人並んで本を読んだことも、あのキッチンで母や悠人が料理している後ろ姿を見ていたことも、あのテレビから流れるキスシーンにそれとなく気まずくなって悠人と二人視線を泳がせたことも、きっと忘れない。
前の家の方が長く住んでいたし思い出も多かったはずなのに出る時は悲しくなんてなかった。この部屋はわたしをたくさん成長させてくれたから、なんとなくセンタメンタルになってしまうかな。
後ろを振り向いて、ドアを開けて、わたしは出て行く。
お母さんと暮らした、最後の場所がここで良かった。
本当に良かった。
ありきたりな言葉しか頭に浮かばないけれど、たくさんのありがとうを込めて、
「お世話になりました」
ともう一度頭を下げた。
*****
母が乗って、私が引き継いで乗ってきた自転車。のカゴにダンボールを、後ろにキャリーバッグを紐で固定して漕いで漕いで漕いで三十分、看板に"Tiger Lily"と書いてあるお店で自転車を停めた。
もともと住んでいた寮は工場に近くて人通りの少ないところにあったけれど、新しい住処は商店街の通りを一本裏に入ったところにこじんまりと存在する二階建ての大きいけれど少し古い建物。
一階は四十三年続いている地域密着型のお花屋さんで、二階がわたしが住むことになった新しいお家だ。
「こんにちは」
ガラス張りのドアを開けて挨拶する。リンリン、と可愛らしいドアベルが鳴り響く店内の奥から、少しぽっちゃりとした、いや、ガタイのいい……いや、あ、そうだ、ふくよかな女性が満遍の笑顔でこちらに向かってきた。
「文乃ちゃん、いらっしゃい!引越し業者さん来ないから、あれ今日じゃなかったっけなんて思ってたけど、文乃ちゃんが先に着いたのね」
沢森 雪穂さん、お花屋さん"Tiger Lily"の店長で、わたしの新しい雇用主。
豪快に笑って、こんなわたしを「んー、採用!」と親指まで立ててくれた神様みたいな人だ。
「遅くなってすみません。あの、荷物が少なかったので引越し業者は雇ってなくて……」
「あら、自分で運んできたの?重かっ……」
わたしの荷物を取りに行ってくれたのか外に出た雪穂さんは、自転車の上野荷物を見て言葉を止めて振り返る。
「これだけ?」
「はい。もの買う余裕がなくて、必要最低限のものしかないんです」
「そう……なるほどね、節約家なのね文乃ちゃん」
一瞬流れた気まずい雰囲気を立ち消すように、自転車に乗せた荷物を手に取り中へ運んでくる雪穂さんに「わたしが持ちます」と慌てて自転車まで小走りで進む。
雪穂さんは、「いいのいいの、軽い軽い」と、片手にダンボール片手にキャリーバッグを引きずってそのまま二階へ上がって行こうとするので後ろを追いかけた。
この建物は一年前に一階の店舗部分と二階の住居部分を全体的にリノベーションしたため、外観はたしかに古さを感じるけれど中に入るとまるで新築のようで真新しさを感じる。
二階に上がると、正面にお手洗いとお風呂場が、左側の扉を開けると、なんとダイニングにキッチンがある。そして右側には扉が二つあってそれぞれが八畳ほどの部屋だ。そのうち一つの部屋は雪穂さんの休む部屋で、中には大量の漫画と小説が詰まっている本棚、そしてご両親と祖父母の仏壇がある。
もう一つがわたしがこれから暮らしていく部屋で、雪穂さんが昔使っていた勉強机と本棚とテレビ、そしてベッドが置かれていてこれでなんと一万円で良いと言う。
「よし!契約の時も言ったし契約書にも書いてあるけど、キッチン、冷蔵庫込み、トイレなどは好きに使って。あ、もちろん一階の休憩部屋やトイレも使って良いから。この部屋も好きにどうぞ!あとはー、仏壇が気にならなくて良いならあっちの部屋の本棚の本、好きに読んでいいから」
「は、はい、何から何まですみません」
「あともう一つ。難しいとは思うけど、少しずつ笑う練習、していこうね。わたしも協力するし、ゆっくりでいいから」
「……出来ますかね」
「出来なきゃ困るわよ。接客業なんだから。大丈夫。わたし昔から未来を予知する能力……はないけど、こう野生の勘がね。ピーンときたから!文乃ちゃん、きっと笑えるようになるわ」
「はい、頑張ります」
探そう探そうと思ってもなかなか条件的に厳しいところばかりで、だからといって夜の仕事をするには愛想が無さすぎて出来ない。
何度かハローワークに出向いては落ち込んで帰宅する、を繰り返していたある日、冷蔵庫の中が空だったのと少し歩きたくなって徒歩で買い物に出かけた帰り道、たまたまいつも通る表通りではなく裏の小道を通って見つけた小さなお花屋さん。
一面ガラス張りのため、中に飾られている花たちがよく見えた。
必然的に花に目を奪われて足が止まる。
時にはお母さんに、彼女の好きなお花でも買っていこう、とドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
エプロンを身につけた店員さんが人当たりのいい笑顔を見せてくる。
「すみません、ダリアって……ありますか?」
「ごめんなさい。ダリアは夏の花なので今は置いてないんです」
「あ……そうなんですね、分かりました」
父からプロポーズされた時に、大好きなダリアの花と指輪を夜景の見えるレストランで渡されたと聞いた、と嬉しそうにお母さんが話していたのを聞いたことがあった。
自分を捨てて他の女を選んだ男の思い出のある花なんて喜ぶだろうか、と迷っていたし、ちょうど良かったのかもしれない。
諦めてお店を出ようとした時に、壁に貼ってある張り紙を見て見送ってくれている店員さんに声をかけた。
「あの……あの張り紙、まだ募集してますか」
「えっ?」
失敗したと思った。出直せば良かった。
卵に納豆、もやし、キャベツ、が入った袋をぶら下げた客が、突然帰り際に張り紙を指差してそう言えば誰だって訝しがるだろう。
でも、理想的だった。
『従業員募集!給与+食住 要相談』
そう花の絵とともに書かれたたった一枚の紙が、輝いて見えた。
そんな怪しさ全開のわたしに、その店員さん、もとい雪穂さんは「募集してますよ。宜しければ明日、面接にいらっしゃいませんか?」と優しく声をかけてくれて、そこからはトントン拍子に話が進み、あっという間に今日を迎えた。
「今日は配達も無いし、早めに店、閉めちゃおっか。歓迎会しよう!」
初めて雪穂さんに会った日のことを思い出していると、雪穂さんがそう言いながらお店を閉めに一階に降りていく。
そして閉め終わると、「行こう!」と言って裏口から出て「お酒飲みたいから近場にしようか」と商店街の方へ歩き出した。
*****
商店街のど真ん中、の地下にある小さなバー。
そのカウンターに雪穂さんと二人、並んで座る。
まだ六時でバーに来る時間では無いのか、まだお客さんはわたし達だけだった。
お酒を飲んだことがないと伝えると、「そんなことある?」と目を丸くした雪穂さんが初心者でも飲みやすいカルーアミルクというカクテルを注文してくれて、飲んでみると甘いコーヒー牛乳のような味に驚きつつ、「美味しいです」と伝える。
それからは、前の工場のことや北海道で頑張る弟のこと、そして亡くなった母のことなどを、聞かれては答え聞かれては答えと繰り返し、気がつけば三杯目のカルーアミルクが無くなりかけていて、少し頭がポーッとしてきていた。
「文乃ちゃん、顔赤い。酔っちゃった?」
「なんかポーッとします。あと暑いです」
「無理しないで、ジュースに変えよっか」
そう微笑みながら言う雪穂さんに甘えて、「じゃあ烏龍茶を……」とカウンターの奥の男性に向かって注文する。
お酒を飲むときはあまり食べ物を口にしないという雪穂さんは、その発言通り、少しだけサラダを口にしてからはひたすらブランデーだかブレンドだかっていうお酒を飲み干していく。
必然的に彼女が注文したサラダと名前はわからないけれど生ハムにチーズと一緒トマトがくるまってるやつ、それからこれも名前は分からないけれどバジルのパスタに、さらにはミートソースが段々になっているドリアみたいなやつ、はわたしの胃に収まっていく。
しばらくすると、一人、二人、三人、と店内に人が増え始め、テーブル席はほぼ埋まってしまっていた。
お手洗いに行きたくなり、雪穂さんに一言伝えて用を足しに席を離れ、席に戻ると雪穂さんの横に男性が立っていて何か話しかけているようだった。
「ナンパ……?」
これが噂のナンパ。たしかに少し体型はふくよかだけれど、清潔感あって笑顔が眩しくて、とても優しいから。
声をかけたくなる気持ちは分からなくもない。
二人の邪魔をしないように、そうっと、そうっと、気づかれないように席に座って、お皿の上にある最後の生ハム巻きを口に含んだ。
いや。
含もうとした。
「――うっ」
突如フォークを持っている手を掴まれる。
誰に、なんて……。
ここ一ヶ月で体が覚えてしまった。
なぜこの人は、すぐわたしの腕を掴むのだろう。
「文乃……?」
ほら。
最後だと決意して会った日からもう二度も遭遇してしまっている。
広いと思っていたこの街は、わたしが想像するよりずっと、狭かったのかもしれない。
「これ、口に入れたいから離して」
「あ、あぁ。ごめん」
立ち去るわけでも話しかけるわけでもなく、その後わたしの後ろでわたしが食べているのを見続けるだけの陽くんに、わたしもとくに何も言わずにひたすら目の前の食べ物を口に運び続けた。
隣に居るはずの雪穂さんはわたしを見ては陽くんを見て、陽くんを見てはわたしを見て、と何度か視線を行き来させたのち、「あー、知り合い見っけ!ちょっと行ってくるわ!」とお酒を片手に席を離れてしまっている。
はぁ、と。背後で小さなため息が聞こえたと思ったら、陽くんは雪穂さんの座っていた場所に腰を下ろし、「ウイスキー。ロックで」と注文をする。
「雪穂さんとこで、働き出したってな」
「……」
「雪穂さんの旦那、俺と同じ大学でさ。研修先も今の病院も同じだから、仲、いいんだ」
「…………」
「おーい、無視かよ」
ひたすら無視を決め込んで、もくもくと食べ物と烏龍茶を食べ続ける。
陽くんの話には、ちゃっかり耳を傾けていて、雪穂さん結婚してたのかとか、雪穂さんの旦那さんもお医者さんなのかとか、そんなことを考えているとだんだん気付いてくる胃の不快感。
突然込み上げた吐き気を手のひらで必死に抑え込んで、前かがみで走ってお手洗いに行く。
「あっ、おい文乃!」
叫ぶように呼ばれる名前に、反応する余裕なんて無い。
お酒のせい?いや、恐らく今まで野菜中心のただの塩胡椒炒めしか食べてこなかったから、チーズやらミートソースやらで胃が驚いてしまったようだ。
あとは――、
陽くんを意識しないように食べ続けていたから、食べ過ぎもあるだろう。
しばらくトイレと仲良しごっこをしているうちに胃の不快感も無くなって、残ったのは食道の違和感と口の中の苦さのみだった。
これは、あの高校三年の、あの日以来の感覚だ。
もっとも、あの時は吐いても胃の不快感は無くならなかったけれども。
過去は変えられないし、あの時の痛みや悲しみを消し去ってしまうことなんて出来ない。
あんな思いをするくらいなら、あんな痛みを植え付けられるのなら、もう二度と望まないと思っていたのに。
見つけてくれて、気づいてくれて、話しかけてくれて、触れてくれるその存在を、また、求めてしまいそうになる。
その真実を認めたくなくて、この孤独な空間で、血が滲むほどに唇を噛み続けた。