茎
あの気まずい食事から二週間が経ち、わたしはまた職場と家を行き来するだけの日常に帰ってきた。
あの後、母の話をしてからの陽くんは、食べ物を口に入れることなくひたすら酒を体内に吸収していくと、一時間ほどで「酔った。帰ろう」とお店を出た。
代行業者の運転する車で公園に送ってもらったけれど、その間わたし達はそれぞれ異なる窓を眺めていた。
帰り際、「また会える?」と聞いてくる陽くんに、暖かい車内から鼻の頭がつーんとするほどに寒い外へ出たわたしは、白い息とともに「いいえ」と返した。
会ってみて、話してみて、触れてみて、改めて分かる。
もう、住む世界が違うのだと。
「山田さん、ちょっといい?」
工場のラインに立って与えられた仕事をひたすらこなしていくと、背後から工場長に声をかけられる。作業着に加え帽子をかぶってマスクまでしているわたしが山田だとよく分かるなぁ、と感心しながら振り返って頷いた。
工場長の後を追うと、外の喫煙スペースで壁にもたれかかって苦い顔をした工場長がタバコに火をつけている。
彼と面談をするような時は、いつもこのスタイルなので「タバコはやめてください」なんて今更言うこともなく、工場長の隣に静かにたれかかった。
何の話か、なんてもう想像ついてる。
最近工場の中の何人かが、辞めて欲しいという話を持ちかけられているという。ついにわたしの番。
「噂に聞いてるかどうかわからないけど」
五十歳だという工場長の、低くてゆったり話す声が頭に入ってくる。昔から、この声を聞くと不思議と落ち着いたな。
「ここの工場を閉鎖することになった。申し訳ないけど、来月いっぱいで、辞めてもらわないといけない」
遂に。この日が。
働き始めて十年、業績は下がる一方だと噂されていた。
いつ工場が賃金の安い国に移されるか。今日かもしれない、明日かもしれない、そんな不安をこの工場で働くみんなは抱えて、それでも生きるために必死に働いてきた。
「寮は再来月いっぱいで出て貰う必要がある。山田さんは若い頃から頑張ってくれてたし家庭の事情も理解してるから力になってあげたいけど、一人にそれやっちゃうと他がな。申し訳ない」
母が倒れて、突然行き場を失ったわたしが十年前に泣きながら頭を下げた人。
『わたしをここで母の代わりに使ってください!お願いします、何でもします。まだ小さい弟がいるんです、行く宛が無いんです、お願いします、お願いします!』
『あー……まあ人手欲しかったし大丈夫だとは思うけど。今日はもう遅いから帰って休みなさい。お母さんのこと色々落ち着いたら、またおいで。その時に話そう』
そう言ってコンビニに連れて行ってくれて、弟とわたしの分のお弁当と飲み物を買って車で家まで送ってくれた。その後も何かと気にかけてくれて、『俺にも山田さんと同い年の娘がいるからなぁ。放っておけないんだ』とコーヒーを買ってくれたり、お昼ご飯をご馳走してくれたりした。
そんな心優しい人だから。
この数日、自分の部下達にこのことを告げるのに、どれだけ胸を痛めたのだろうか。
この人に。この場所に。わたしができることは、
「工場長、わたし、ここがあったから頑張れました。未熟だったわたしを育ててくれて、ありがとうございました。もう大丈夫です。わたし、もういっちょ前に大人なんですよ」
決定事項を受け入れて、飛び立つことだけだ。
寒さのせいなのか辛い気持ちがそうさせているのか、工場長の鼻は赤くなっていて目はうっすらと潤んでいる。
「お前はなぁ。最初あんなに号泣してたくせに、その後は無愛想でなぁ。将来どうなることやらと心配してたのに。大きくなったなぁ」
言葉が耳から全身に溶けていく。
聴き心地の良い声が、わたしを包んでいく。
呼び出された時から、絶対泣かないと強く決めたはずなのに。
頬を生暖かいものが伝って落ちていった。
「……雨ですね」
「……あぁ。雨だな」
大人が二人、壁に背をつき快晴の空を見上げている。
頬を伝う涙を、わたしたちは雨のせいにした。
*****
帰り道、今後のことについて考える。
月一万円の寮賃はとても助かっていた。
寮賃や保険代などをもろもろ引かれて十五万ほどしか手元に入ってこない給料は、悠人の学費と生活費に大半が消えていく。
他の場所で働くとなると、出費に更に家賃が追加されるわけで。
道端の不動産屋さんの広告を見ると、この辺の家賃の平均はおよそ五万円前後。
赤字だ。
わたしがもっと稼げればいいのかもしれないけれど、高卒で工場でしか働いたことないがないという経歴を考えると、同等、もしくは更に低い賃金が妥当だろう。
もっと家賃の安い土地に、この際移り住む?
でも家賃の安い土地は、きっと賃金も下がってしまう。
そしたら悠人への仕送りがギリギリになるかもしれない。
それは避けなければ。
もう大人だけれど。
経験の足りない大人は、守られている子供とそう変わらないのかもしれない。
お母さん、あなたはあの時どんな気持ちで、わたし達二人を抱えて生きることを決意したの?
わたし、どうしていいか、全然わからないよ。
繰り返し口から漏れるため息に、改めて窮地に立たされていることを思い知らされる。
とぼとぼと歩みを進める足が、突然止まった。
「……――っ?」
隣を通り過ぎるはずだった車の窓から、突然手が出てきてわたしの腕を掴んだので、止まらざるを得なかった。
恐怖から息がつまる。
手の奥の腕をたどって手の主を見ると、
「文乃」
「……よう、くん……」
二週間ぶりに見る思い人だった。
わたしの腕を掴んでいる手とは逆の手をハンドルに乗せて、二週間前とはうってかわって一切の笑みを見せずにフロントガラスを睨みつけて口を開く。
「二週間ぶり」
「な、にしてんの」
「仕事帰り」
「ちょっ、腕、離して」
「家まで送るよ」
「いらない」
彼の纏う空気が痛い。
フランクに話しているようでどこか威圧感を含んだ声に、恐怖を覚える。
とにかくその場を離れたくて腕を下に向けて振り下ろすと、ドアに腕をぶつけた陽くんが「いっ……!」と言って手を離す。
やりすぎた、と思いながらも、とにかく逃げるためにその隙を狙ってわたしは走り出した。
家についてからドアを閉めてその場に崩れ落ちる。
泣きたくなんて無いのに、工場のことも、陽くんのことも、どう自分の中で処理していけばいいのかわからなくて、静かに、ただ静かに涙で床を濡らした。
眠れぬ夜が過ぎて、また朝が来る。
そんな毎日を繰り返して。
毎日毎日どうしようどうしようとあたふたしていたら、あっという間に工場を去る日の一週間前を迎えてしまった。
土曜日で仕事もないと、なおさらどうしようと考える時間が増えて頭が痛い。
とりあえず仕事を探しに街に繰り出そうと、準備を始めた。
家を出ようとスニーカーに片足を入れた瞬間に、家の電話が鳴る。
陽くんだったらどうしよう、とびくりびくり受話器を耳に当てると、「もしもし、姉ちゃん?」と悠人の声が聞こえてきて、途端に心拍数が下がって行くのがわかる。
その余韻に浸りながら、悠人との会話に集中することにした。
「どうしたの?」
「メリークリスマス!あと、明けましておめでとう!」
「んん?あ、そっか、あったね」
「まじ?気づかずにいたの?大丈夫?何かあった?」
クリスマスは家族や恋人と過ごす日、だからわたしには関係ない。お正月なんて元旦以外は働いていたし、わたしからしたらこれらのおめでたい日はいつもと変わらないただの一日だ。
悠人は楽しめただろうか。わたしと違って、悠人にはそういうイベントごとも楽しんでもらえるように、クリスマスにはプレゼントを用意したしお正月には少ないけどお年玉だってあげた。
わたしからしか貰えない少ないお年玉を、母の写真などをまとめてあるすっごく昔に食べたお菓子の缶に貯金をしているのを見たときは、思わず後ろから抱きしめてしまった。
電話越しに「大丈夫よ、いつも通り仕事してたから、日付の感覚がね」と返事をすると、クリスマスはバイト先のメンバーでカラオケに行ったことや、お正月は大学の友人と初詣に行ったことを面白おかしく話す悠人の声は弾んでいて、より一層悠人のために仕事を探さないとと気持ちが焦る。
「俺、初詣でめっちゃ姉ちゃんのことお願いした。奮発して五百円も払っちゃったよ。だから今年、姉ちゃんめっちゃ良い年になるよ!」
あぁ、涙腺が緩む。
悠人の存在にどれだけ助けられていたか、この子は知らないんだろうな。
働き出した最初の年は、すれ違う自分と同い年くらいの人たちの楽しそうな姿に、悠人がいなければわたしももっと自由にお金が使えるのに、なんて思ったことは無くはない。
でも、突然母が居なくなってわたしと二人きりの生活の中、泣き言一つ言わないで家事をして勉強をして、強くあろうとする姿を見て、見続けて、わたしは残りの人生を全てこの子のために生きようと誓った。
「悠人、去年も一昨年もその前の年も、わたし、良い一年だったの。でも、悠人がお願いしてくれたから、今年はきっともっと良い一年になるよ」
「俺もあと一年で卒業だし。早く稼げるようになって、姉ちゃんの欲しいもん全部買ったるから」
「本当に?楽しみにしてるね」
「おう。じゃあ俺バイトの時間だから。また電話する」
心が温まる。その温かさに浸かっていたくて、既に切れてしまった電話の電子音に耳をすませた。
と、いつまでも喜びに浸っているわけにはいかない。
突然現実に帰って、改めて職探しのため、家を飛び出して気づく。
自転車工場に置きっ放しだ……と。