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アネモネが咲いたら  作者: ならはし あやめ
3/7

発芽

 


 大企業と呼ばれる企業が日本にはたくさんある。


 その中でも、世界に名を馳せる大企業の重役だった祖父は、何故か質素な生活が好きだった。


 そのおかげか、自分で会社を興して一代で大成功を収めた父も、祖父と同じく質素な生活が好きだった。


 姉が生まれる前に買った家は商店街の近くの一軒家で、ものすごく広いわけではないけれど暖かい家だった。両親の部屋があって、姉と俺の部屋がそれぞれにあって、リビングにダイニング、キッチン、そして二つのトイレ、それから風呂が好きな父のための少し広めの風呂がある、そんな家だった。


 隣の家には、真っ黒な髪に長くもないまつ毛が縁取る奥二重の目の女の子が住んでいて、その子は俺と同い年だった。隣の家のその子のことが、俺は、大嫌いだった。




 聞けば、病院は違えど生まれた日も同じだと言う。


 なんの冗談か、その子も俺も、バレンタインデーにこの世に生を受けた。


 近くの商店街で音楽教室を営む彼女の父親と専業主婦の母親は、良くも悪くも人のいい方たちで、少しばかり世間知らずな俺の両親は大変よくしてもらっていたと聞いている。


 親同士が仲が良い、というのは困ったもので、小さい頃からその子とよく遊ばさせられていた。


 いつも俺の後ろとひょこひょこ付いてくる、何かをいうことなくただただ付いてくるその子は気味が悪かったし親しくしたくもなかったけれど、どことなく放っておけない雰囲気のある子だったせいか、嫌いなはずなのに自然と側におくようになった。


 その後、幼稚園、小学校と行動を共にすることが多かったためか、自然と彼女の視線の意味を理解するようになる。


 彼女、櫻井 文乃は、恐らく俺が好きだ。




 小さい頃からどうすれば大人が喜ぶのか、どうすれば自分の株が上がるのか、そんなことをズルく計算できるような小生意気な俺は、嫌いという空気を押し殺して彼女の面倒を見た。


 泣きそうな顔をしていれば寄り添って、辛そうな顔をしていれば手を繋いで、楽しそうに笑っていれば共に笑って。彼女がどんどん俺に堕ちていく姿を見て、裏で馬鹿にしたようにほくそ笑んでいた。


 こんな風に思われているなんて知らずに好い気なもんだ、と。




 早熟だった俺は、小学校で既に彼女的な存在が出来ていたし、中学一年生の時は年上の先輩と体の関係も持った。正直、初めて女性と結ばれた時は、こんなに気持ちがいいことがあるのかと子供ながらに驚いたものだった。


 俺に彼女ができるたびに、意識してなのか無意識なのか、文乃は俺の側に来なくなる。少し離れた場所で、切なそうな表情でただ俺を見ているようになった。


 自分で言うのもなんだけど、要領が良いのか勉強も運動も人並み以上にこなしていた俺は、同級生だけではなく先輩後輩にも人気があって、人の顔色を伺うことが得意なおかげか先生からも気に入られ友達も多かった。


 それと比べて勉強も運動も普通で、かつ暗くて大人しい文乃は、周りの友達もそんな感じの子ばかりで、ぶっちゃけ見下し対象だった。




 その意識が変わったのは中学三年の時だったと思う。


 国内でも有数の高い偏差値の私立高校を受験することになっていた俺は、あの高校に受かれば暗くて俺には不釣り合いな文乃と離れられる、そう思っていた。


 だけど、高校に上がると、馬鹿だと思っていた文乃が居た。


 それも首席合格だと言う。




 それからというもの、テストがあるたびに、自分の名前より先に文乃の名前を探すようになった。


 文乃は、いつも三位以内に名前が挙がっていて、暗いくせにそこそこ友達も多かった。まあ、その友達も教室の隅っこで固まっているような暗い子たちだったけれど。


 俺は、周りからの評価は中学同様かなり高かったけれど、テストの結果はいつも文乃より低かった。


 悔しい気持ちを押し殺して"いい人"を演じているうちに、あっという間に高校二年になって進路のことを考えるようになった。


 俺はとにかく文乃と離れたかった。


 追いついてこれないような場所まで逃げて逃げて、二度と会わない場所に行きたかった。


 もともと医学部に進みたかった俺は、北海道の大学を視野に入れ始める。




 受験勉強を早々に始めたころ、突然文乃に気持ちを伝えられた。


 どうしようか少し迷ったけれど、俺に夢中になって勉強が疎かになって、俺に付いてこれないところまで落ちてしまえ、と思って付き合うことを提案した。


 それからは、それはそれはまるで宝物のように大切にした。もっと落ちろ、もっと落ちろ、と、まるで呪いのように心の中で唱えながら。


 でも、俺の気持ちに反して、文乃の成績はキープされたままで、気持ちで落ちないなら身体で、と思ってあの日俺は文乃を抱くことにした。




 なのに。




 目をぎゅっとつぶって、俺にキスを受け入れている文乃を見ているうちに、足の先から髪の毛一本一本の先まで突然熱くなり始めてその熱さに自分が火傷しそうだった。


 このまま激しくして痛くして身体の隅々に噛み付いて抱き殺してしまいたい、なんて歪んだ真っ黒に湧き上がる気持ちに、突然自分が恐ろしくなった。と同時に、心臓が口から出てしまうんじゃないかと思うくらいに打っていて吐きそうになった。


 思わず離れて「気持ち悪い」と突き放して目線を逸らした。


 呆然と身動き一つしなかった文乃は少しすると乱れた服を直して、


「陽くん、また明日ね」


 と、部屋を後にした。




 その翌日から、毎日声をかけてくる文乃を無視して無視して無視して、まるでそこに存在しないかのように扱って、視界の隅で泣きそうになりながら唇を噛みしめる姿にどこかホッとして。


 関わるのは怖いのに、俺のことは忘れて欲しくないなんて。


 なんて自己中だったんだろうか。




 日に日に伸びていくスカートの丈。理由は知っていた。


 無視されてもめげずに俺に声なんてかけるから、それを気に入らない人たちに痛めつけられる。


 ふとした時に見える太ももに、大きな青あざが消えることなく付いていることも、時々びしょ濡れで家に向かって帰っていく姿も、放課後誰もいない教室でぐしゃぐしゃになった教科書やノートを必死に伸ばしているところも、全部見てたのに。


 なんで助けてあげられなかったんだろう。




 時々声をかけてくる女に昂りをぶつけて、教室だろうが部室だろうが関係なしに抱いた。


 でも、抱いても抱いても快感ばかり感じて、あの時のような胸の高鳴りは皆無だった。あげく、虚しさばかりが募ってなにもかも嫌になっていく日々が続いた。




 そんな乱れた生活をしていたある日、突然毎朝の「おはよう」も、帰り際の「また明日」も無くなって、文乃は俯いて学校生活を送るようになった。


 あれほど視線が合わないようにしていたのに、いざこっちを向いてくれなくなると途端に寂しくて悲しくて、なんとかその視界に映りたくなって。


 でも、激しい虐めのせいで友達も離れ、独りぼっちで俯いて生活していて、学校が終わるとビクビク震えながらそそくさと学校を出て行く文乃の目と俺の眼が、その後合うことはなかった。




 卒業式前日、後二日もすれば学校で会わなくなる。


 声が聞きたい。笑っているところを見たい。


 あんなに嫌いだったのに気づけば目で追っていて、初めて自分の本当の気持ちを自覚した。


 過去に呪いのように俺に落ちて欲しいと思っていたのも、あの時あんなに心臓が高鳴っていたのも、その視界に移りたいと思っていたのも、全部、好きってことだったんだと、自覚と同時に絶望感に襲われた。


 謝れば、文乃のことだから、またきっと。


 自分に言い聞かせながら文乃の家のチャイムを押した。出てきた人は、全然知らない人だった。


 その人から聞いた話で、俺は何も知らなかったんだと愕然とする。


『もうこの家には居ないわよ。離婚して母親もろとも出て行ったんだから』


 化粧と香水の濃い水商売の女みたいな奴が、鼻で笑いながら「バカな女達」なんて付け加えるもんだから思わず手が出そうになったけれど、若干十八歳の自分にはなんの権限もないことを知っていたから耐えた。


 明日、明日の卒業式がラストチャンス。ちゃんと謝って、気持ちを伝えて、そうすれば文乃はきっとまた微笑んでくれる、名前を呼んでくれる、視界に入れてくれる、そう思ったのに。




 文乃は、卒業式には現れなかった。




 *****




 あれから十年、長かった。


 寂しさを紛らわせるように他の人と付き合ったこともあった。


 でもいつもどこかで文乃を思い浮かべてた。


 そんな恋い焦がれて仕方のない人が目の前にいるのに、また、視線が合わない。


「文乃、これも美味いよ、食べて」


 学生時代も細かったけれど、今の文乃は骨と皮しかない。まるで別人のように痩せ細った文乃は、そう話しかける俺の声にびくりと体を震わせ目の前のお皿をただ見つめている。


 唇はカサカサだし目の下には黒い隈がくっきり。さっき握った手首は薬指の爪に親指がかぶるくらい細くて、掌に乗せた手はあちこちに傷がついていて、あと少し傷が深ければ骨が見えてしまうかもしれないと思えるほど薄かった。


 そんな思い人の姿に、気を緩めると泣いてしまいそうだった。


 いつもなら大好きなビールすら、味のない炭酸水のように感てしまうくらい、見ていて痛々しかった。


「文乃、怖がらないで。少し話をしよう。離れてた間の話、聞かせてほしい。おばさんや悠人は元気?」


 まるで子供に話しかけるように、優しく、ゆっくり話しかける。


 文乃は、深くため息をつくと、諦めたようにポツリポツリと話し出した。


「お母さんは、高校の卒業式の前の日に倒れて、そのまま死んだ。悠人は、北海道の大学にいるの」


「……死んだ?おばさんが?なんで……そんな」


「お父さんには、会ってる?」


「いや、たまに見かけるけど、俺も家出てるから高校以来話してないよ」


「そう。お母さん、体が弱かったから。私と悠人のために働きづめで倒れちゃったの」


「……そっか」


 二十八年も、俺は何を学んできたんだろうか。こんな時、かける言葉一つ見つからない。医者なんてやっているから人の死は常に身近にある。いつも、遺族にかける言葉は迷う。その言葉の重みは、俺が考えているよりもずっと、遺族達にとっては重たいものだろうから。


「じゃあ高校卒業後はどこか親戚の家に?」


 結局なんと返せば良いかわからなくて、そのまま話を進めた。


「ううん。母は孤児だったから。頼る人も見つからなくて、私が働いてなんとか」


「そんなことって……」


 百六十五センチメートル、女子の中では大きいはずの文乃なのに、今はとても小さく見える。


 化粧っ気はないし、髪の毛も今の話を聞くと自分で切っているんだろうガタガタだ。


 高校の時ぴったりだった服は心なしかダボダボで、よく見るとところどころ小さく穴も開いている。


 この十年、人によっては一番楽しいとされるこの十年、苦しみを背負って悲しみを抱いて、弟のためだけに生きてきたこの子はどんな思いで……。


「……同情、しないで。わたし、自分が不幸だなんて思ってない」


 やっと目が合った。睨まれているのに、こんなにも嬉しい。


 あんな話を聞いて沈んでいなければいけないのに、たった五秒目が合っただけで思わず笑みが浮かびそうなほど嬉しい。


「……ここ、美味いんだほんとに。少しでもいいから、食べてよ。残したら捨てることになるし」


 元気になって欲しくて、なんとか少しでも食べてもらおうとまるで脅すかのような言葉を吐く。


 残すのは忍びないと思ったのかこの部屋に入ってから二十分、料理に手をつけようとしなかった文乃がようやく箸を手に取った。




 昔から泣いてる時はいつも俺が側にいた。


 なのになんで、一番辛い時に、お前の手を離してしまったんだろう。なんで支えてやらなかったんだろう。


 自分の不甲斐なさに耐えられなくて、手に握ったジョッキグラスに残っていたビールを、勢いよく喉の奥へと流しこんだ。



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