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アネモネが咲いたら  作者: ならはし あやめ
2/7

発根

 


 夜勤が終わって家に帰る。十二月、冬のど真ん中に漕ぐ自転車の寒いこと寒いこと。部屋に入ると外と五度ほどしか変わらないけれど、それでも暖かいと感じる。


 作業着を脱いでキャリーバッグの上に置き手を洗いにお風呂場へ向かう。お風呂場から出た瞬間、待っていましたとばかりに家の電話が鳴り響いた。


 時計を見ると九時半を指し示していて、こんな時間に誰だろうと思って受話器を取る。


「はい、山田です」


『あ、姉ちゃん?』


「悠人? どうしたの、こんな時間に」


『昨日の夜も電話したけど出なかったから、夜勤かなぁって思って』


「うん、夜勤だったの。どうしたの?」


 鉄仮面を顔に被せているわたしでも、まるで息子のように育て上げた弟の悠人との久しぶりの電話には表情が緩む。


 因縁か何か、悠人も医学部に入ったけれど、それが陽くんの出た北海道の大学だった。


『今年の冬休み、俺こっちでバイトしようと思うけど……クリスマスとかお正月とか、姉ちゃん一人で大丈夫?』


「じゃあ帰ってこないのね。大丈夫、子供じゃないんだから。帰ってくるのにもお金かかるしね。バイト頑張って」


『おう。また電話する』


 小さい頃からいい子だったけれど、立派になって……と心が暖かくなる。


 わたしに負担をかけまいと必死に勉強して、学費の安い国立医大へと進んだ。中学で母親を亡くして不安だらけだっただろうに、わたしの前ではいつも笑って励ましてくれて。進んで家事もやってくれていたから、わたしも仕事に専念出来た。


 突然バイトだなんて、恋人でも出来たかな。




 お風呂に入ってから布団に入って眠ろうと努力してみる。一向に眠気がこなくて、仕方なく布団から出た。


 キッチンの隅っこに置かれている薬箱から睡眠薬を取り出して口に含んで水道水で流し込む。備え付けのテレビを付けて、お笑い芸人が深妙な顔してこの間発生した事件についてコメントを出している。


 一時間ほどテレビの画面を見ていると段々と意識が薄れていくので、そのまま体に巻き付いてくる黒い煙が誘う夢の世界へと身を委ねる。




 *****




 家の電話が鳴る音で、夢から強制的に覚める。


 時計に目をやると六時に鳴る頃で、いつもより長く寝ていたせいか母の亡くなるシーンまで見てしまった。


 顔に当たる空気がひんやりしている気がして顔に手をやると、寝ながらにして泣いていたようで、涙で顔が濡れていた。


 現実に戻るのに時間がかかっていると、鳴っていた電話が止み、そして少ししてからまた鳴り出した。


 のっそりと布団を出て受話器を耳に当てる。


「はい、山田です」


『長谷部です。文乃?』


 何年振りだろう、電話越しの声。あの頃より大人びた声色に、耳から緊張が広がって受話器を強く握った。


「……はい」


『はー、良かった。出てくれないかと思った』


「ごめんなさい、寝てて……」


『あ、起こしちゃった?』


「いえ」


『……あー……と。えと、さ。夕飯、食べた?』


「……まだです」


『じゃあ、ご飯行こうよ』


 わたしは喜んでいるのだろうか。何故、こんなに手が震えるんだろう。ダメだ、さっきの夢の余韻のせいか、また涙が出てくる。


「食欲ないので結構です」


『軽くでもダメ?』


「ダメです」


『……あのさ、空気読めなくてごめん。なんで泣いてんの?』


 まさか気づかれるとは。そんなに声は震えていないし、涙声にもなっていないのに。でも、たしかに小さい頃、わたしの泣いてるところにふらっと現れるのはいつも陽くんだった。


 だから、多分、そういうところを好きになったんだと思う。一番辛い時には、側にいてくれなかったけど。


「泣いてないです」


『無理強いはしないつもりだったけど、やっぱり行こう。会いたい、文乃』


 残酷な人。『会いたい』この一言を、あの頃どんなに待ち望んでいたか。


 母を亡くして、必死に働いて時々心が折れてしまいそうな時、嫌な思いばかりしたというのに、それでも頭に浮かぶのはやっぱり陽くんで。


 会いたかった。もう、その眼に映らなくても良い。

 ただ声が聞きたかった。

 後ろ姿でも良いから、眼に焼き付けておきたかった。


 どうしてもつらくて我慢ならない時、実はこっそり、陽くんの家に行ったこともある。昔陽くんと良く遊んだ公園とか、付き合ってる時に待ち合わせした駅前のコンビニとか、そういうところにも足を運んだりした。


 受験に成功して北海道に行ってしまったから、見ることはなかったけれど。


 あぁ、違う、一回だけ見かけたっけ。


 悠人を大学へ送り出す日、駅で、電車から降りてくる陽くんを見かけた。数えきれないほどの人が行き交う中で、陽くんだけ異様に眼に付いた。


 それと同時に、手を繋いでいるお似合いの綺麗な女性の姿も認識してしまったから、悠人の門出だというのに、涙を堪えることになってしまった。


 人とぶつかりそうになる彼女の肩を抱いて、二人で談笑しながら向かう方向は彼の実家がある方で、思わず目で追ってしまう。


 悠人は賢い子だったから、恐らくわたしの視線に気付いたようで、そっとわたしを顔を肩に埋めさせてくれたっけ。


 あの苦い記憶を打ち消すように頭を振って、静かに、でも強く受話器に向かって話しかける。



「陽くん、わたし、陽くんに会いたくない」


 電話の向こうで、息を飲む声が微かに聞こえた。


『――文乃。少しでいい。五分、いや十秒でいい。顔が見たい』


 なんで揺さぶってくるんだろう。


 もう違う世界の人間だと、全て諦めたのに。


 なんで今更、そんなことを言うんだろう。


 わたしだって会いたかった。今だって、会いたくて仕方がない。でも、怖い。


 だけど、会いたい。頭では分かってる。会いたい。


 会いたくて、触れたくて、つらい。


「ご飯は行かない。常葉高の後ろの公園で待ってる」


 それだけ伝えて電話を切った。


 今日会ったら、もう二度と会わない。だからこそ、しっかり目に焼き付けて。


 あの頃と同じ事は繰り返さない。そう決意した。




 シャワーを浴びて、Tシャツにジーパンを身につける。母が亡くなってから服なんて買えなかったから、これも高校の時に買ったものだ。まあ、普段は作業着だから、新しい服なんて買わなくてもなんとかなるし。


 これまた高校の時に買った流行遅れの上着を羽織って家を出る。


 自転車にまたがって公園に入ろうとすると、公園の入り口に停めてある車の窓が開いて、「文乃」と声をかけられた。


「寒いから中で話そう」


「寒くても外がいい」


 自転車を公園に入ってすぐのところに停めて、学校帰りに二人でよく寄り道していたこの公園のブランコに、十年ぶりに座る。


 車を安全なところまで移動した陽くんが、小走りで向かってきて、隣のブランコへ腰掛けた。


「寒くね?」


「寒いね」


「……その上着、高校の時もよく着てたね。もしかして俺のため?」


「……?」


 質問の意図がよく分からなくて、返答が出来ないまま地面の砂を蹴る。


 見たい。のに、見れない。ジレンマ。


「違うか。一緒に遊んでた時よく着てたから、俺のために着てきてくれたのかと。はは、気のせいか」


「あぁ……。冬に着れる服、これしか持ってないから」


「は?それしか持ってないって、それどういう……」


 上から下まで、わたしの格好を一通り確認した彼は、そのまま何も言わなくなった。恐らく気付いたのだろう、中に着ているTシャツもズボンも、そして靴さえもわたしは高校の時から新しいものを買っていない。


「文乃、お前……どんな……」


 洗いすぎて乾燥し、冬の寒さに晒されている手はあちこち皮がむけて血が出ている。陽くんの視線を手に感じて、恥ずかしさやら気まずさから上着の中に引っ込めた。


「……十秒、とうに過ぎたね。帰ろっか」


 これ以上哀れんだ視線を感じたくなくて、ブランコから立ち上がって陽くんを振り返る。


 あ、やっと見れた。良かった。ちゃんと見れた。


「じゃあね」


 今度こそ、もう二度と会わないように、しっかり陽くんの顔を見る。大人になって、昔より素敵になった姿をしっかり記憶に残しておこうと。


 何かを言いたげに、でも言葉が出ない、といったような顔でただ唖然とわたしの手や服や靴の上を滑っていく視線にいたたまれさを感じる。


 これ以上、ここに長居は無用だ。帰ろう。帰って、これからのことを考えないと。


 まだ見ていたい気持ちをぐっと押し殺して、わたしは視線を前に戻し一歩、また一歩と歩き出した。




「……あ、文乃、やっぱこのまま帰せねーわ。飯行こう」


 そう言うと、わたしが逃げないようにか、腕を掴まれて引っ張られる。皮膚が切れたところを強く握られて、痛みで顔を顰めた。それを見て少しだけ力を緩めた陽くんは、そのまま私を連れて停めてある車のところまで引きずるように連れてきて何も言わずに助手席に押し込めると、運転席に回って乗り込む。


 引きずられた300メートルほどの距離の間にも、何度か身じろぎして逃げようとしたけれど、それを許してはもらえなくて、改めて男女の力の差を感じた。


「アレルギー無かったよな。俺の行きつけのとこ行こう」


 そういうと反論する前にさっさと車を発進させていく。流れていく景色を見ながら、どうすれば逃れられるだろうか、と考えた。


「……停めてくれないと、走ってる車から飛び降りるよ」


 睨みつけて低い声でそう言うわたし、陽くんはにちらりと目をやってから前方に視線を戻して、何も言わないまま車を走らせる。


 かなりの速度を出している車から飛び出せるタイミングを計っているけれど、何故か信号は毎回青だし車が止まるタイミングが見つからない。


 そのままチャンスを伺って十五分も経たないうちに、こじんまりとした建物の前に車を止めた。


「着いたよ」


 視線も合わさずそう呟いて運転席を降りた陽くんは、助手席に回り込んでわたしの腕を引いて車から下ろすと、目の前に立っていた男性に車のキーを渡してわたしを引きずったまま建物の中へ進んでいく。


 中へ入ると、テレビで見るような、お高めの料亭のようだった。着物を着たご年配の女性がこちらに気付いて頭を下げる。


「長谷部様、お待ちしておりました」


「予約もなしにすみません。いつもの部屋、空いてますか?」


「えぇ。今用意させますから、ここで少しお待ちいただけます?」


「えぇ」


 どうしていいか分からず、ただきょろきょろと視線を漂わせるわたしから手を離して、未だ上着の袖の中に隠している手を無理やり引っ張り出して自分の掌に乗せた。


 手から感じる暖かさに、まるで体のあちこちに心臓が移動したように、どこもかしこも強く高鳴る。


「痛そうだな」


「痛くないわ」


「そっか」


 気まずさ全開の中、先ほどの女性とは異なる着物を着た若い女性が、背後から声をかけてきた。


「お待たせいた……え、陽?」


「あぁ、今日はこっちだったのか」


「別邸は今日は閉めているから」


 知り合いなのだろうか。下の名前を呼び捨てにするほどの。と、その女性の顔に見覚えがあった。


 あぁ、駅で陽くんと手を繋いでいた……恐らく陽くんの、カノジョ。


 あの時のこと思い出して、ズキズキと痛みを感じる心臓をどうにか落ち付けようと気づかれないように深く息をついていると、こちらに気付いた女性が驚いたような表情で目を見開いてから陽くんを見上げて、


「誰?」


 と硬い声色で尋ねる。


 未だわたしの手を握ったままの陽くんは、女性に視線を合わせることなく、冷たく返した。


「婚約者」




 予想もしなかった返答に、その女性とわたし、両方の動きが止まる。どういう意図で言ったにせよ、わたしにとって良いことではない。恐らくこのカノジョと喧嘩でもしているのだろう。当て馬扱いに込み上げる悲しみや悔しさから手を振り払おうとするけれど、先ほどまでの比にならないほどの強い力で握られた手の痛みで視界が潤んだ。


「あら、長谷部様申し訳ありません。純、何してるの。早く部屋に案内なさい」


「は、はい、大女将」


 先ほどのご年配の女性が、純と呼ばれた陽くんのカノジョの後ろから声をかけてきた。ハッとしたように反応を返した女性は、「失礼致しました、こちらへどうぞ」と軽く頭を下げると、そのまま個室の部屋まで陽くんと彼に引っ張られているわたしを案内してくれた。


「若女将、いつものコースを頼む。飲み物は、俺はまず生で。文乃はどうする?」


 陽くんはわたしの肩に手をやって強制的に座椅子に座らせながら、その女性に淡々と注文をしていく。


 慌ただしく過ぎていく展開にただぼうっとテーブルを見つめていると、わたしが逃げる気力を無くしたことに気づいたのか、陽くんがわたしから離れて向かいに座った。


 そして、


「もう一つ生を」


 そう注文をすると、若女将と呼ばれた女性は何かを言いたげに少しの間そこを動かなかったが、やがて諦めたようにため息をついて「かしこまりました」と襖を閉めて離れていった。


 狭い空間、射抜くように浴びせられる視線、まだ部屋に入って五分も経っていないというのに、わたしはすでに疲労困憊で、あ、今ならすごくよく眠れそう、なんて現実逃避していたのだった。



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