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アネモネが咲いたら  作者: ならはし あやめ
1/7

球根

 


 〇歳、


 隣の家のあなたと初めてわたしは出会いました(小さすぎて記憶にないけれども)。



 五歳、


 家から通園バスに乗って十五分のところにある『ひまわり幼稚園』で、わたしはあなたに恋をしました。



 十歳、


 家から歩いて三十分のところにある『みどり小学校』で、運動も勉強も出来るあなたにもっと惚れ込んで。



 十七歳、


 家から自転車で二十分のところにある『常葉高校』で、あなたに想いを告げたけれど、受け入れてくれたように見せて拒絶されて。




 それから十年、二十八歳、


 嬉しくない偶然、職場で突然体調を崩し早退して向かった大学病院で、わたしはあなたに再会してしまったのです。




 *****




「特に異常はありません。眼の下、隈もすごいし寝不足じゃないかと思います。最近よく眠れてますか?」


「あぁ……言われてみれば睡眠時間が短いです」


「時間があるときにゆっくり休んで。もし睡眠が取れてても症状が治らないようでしたらまた来てください」


「はい、ありがとうございました」


 幼馴染、といえば聞こえがいい、ただの腐れ縁。


 名札に書かれた『長谷部』の文字を見ながら、気づかれないように息を吐き出して診察室を出ようとした。


「文乃」


 診察室の扉に手をかけたところで名前を呼ばれてる立ち止まる。


「……お医者さんって下の名前で患者を呼んでいいんですか」


「名字変わってたから。結婚した?」


「親が離婚したの。母に引き取られたから、今は山田です」


 十八歳の時に、この男の視界に入ろうと頑張ったわたしは、人気者に近づく不届き者な人間としてそれはそれは素晴らしい虐められライフを送った。


 トイレに閉じ込められて蹴られ殴られるだけでは済まない勢いの虐めに、怖くて助けなんて求められなかった。



 そんな精神的にボロボロな時に限って何もうまくいかなくて。


 親が離婚したのも丁度その頃だった。父親の不倫相手が家に乗り込んできて、母に離婚を迫った。結局父親はその人を選んで母に離婚を突きつけ、専業主婦だった母が私と弟を連れて家を出た形だった。


 わたしも子供で何も知らなかったけれど、小さい頃捨てられて施設で育った母もなにも知らなくて、慰謝料や財産分与なんてせずに家を出たわたしたちは、母が見つけた工場の仕事の寮で暮らし始めた。


 でも、結婚してから今まで働いたことなんて無かった母が突然肉体労働なんて無理に決まっていて、わたしの卒業前日に母は倒れてそのまま帰らない人となった。


 わたしはそのまま卒業式にも出ず、元々進学予定だったのを急遽取り消して母の働いていた会社の計らいで母の働いていた工場で働くことになった。まだ中学一年生の弟と二人、頼る人も居ない中で生きていく術がそれしか無かった。




「じゃあ山田さん、よければ今度食事でもどう?」


 背後から聞こえる声に、静かに振り返って返す。


「なんで?」


 感情の籠らない話し方、笑うために動かせない表情筋、あの頃のわたしはもう居ないのに、今更になってあの頃は合わせたくても合わなかった視線がかち合う。


「……連絡先、教えてよ」


「携帯電話、持ってないの」


「嘘つけ」


「本当よ。必要なかったから買ってない。家の電話しかないの」


「じゃあ家の電話でいいから、教えてもらっても?」


 期待なんてしてない。また笑い合えるなんて期待しない。でも心とは裏腹に体は言うことを聞いてくれなくて、眉毛を下げて問いかけてくるこの男に、仕事のメモ用で使っているノートの隅に電話番号を書いて渡した。


 ちなみに、携帯電話を持っていないのは本当。


 弟には買ったあげたけれど、虐められていたせいで元々の友人は皆わたしから離れてしまったし、働いている工場でもこの無愛想のせいか馴染めなかったので連絡先交換なんてしてこなかった。


 まあ、なんだかんだと個人作業のおかげか馴染まなくとも既に十一年も勤め上げているけれど。


「今日、仕事終わったら電話するよ。少し話そう」


「……今日、昼間早退したから夜勤で仕事出るの」


「夜勤? そっか。じゃあ明日の夜は?」


 今日は金曜日で、今日の夜勤が終わったら明日明後日の二日は工場が休みだ。


「休みだけど……」


「じゃあ、明日の夜電話する」


「……わかった」


 肯定の意を伝えると、少しだけ安心したように笑って「良かった、じゃあまた明日」と言った。あの頃と変わらない笑顔に、少しだけ泣きそうになった。




 家に着いたのは午後二時だった。夜勤は九時からなので、少しだけ寝ようと畳に布団を敷く。


 昔は狭いと思っていた十畳の部屋は、一人になった今となっては広く感じる。余計なものが何もないがらんとした部屋には、備え付けのいくつかの家電とこの布団と小さな机、それからわたしの服が入っているキャリーバッグが隅っこに置かれているだけだ。


 弟が大学に進学して家を出た時からもう五年、寝たいのに寝られない悪循環に陥っていて、確かに慢性的な睡眠不足が続いている。


 天井の木目を数えながら、今日会った男の顔を思い出す。別れ際の笑顔を頭に浮かべると不思議とウトウトしてくる。そしてゆっくりの睡眠の世界に旅立つと同時に、足元から黒いものがわたしを包む。


 そう、これのせいで、わたしはずっと深く眠れずにいる。




 *****




 小さい麦わら帽子を頭に乗せてピンクのワンピースを身にまとい、よたよたと走っている。向かう先には、同じように麦わら帽子をかぶり、オーバーオールを身にまとった男の子。


 女の子の背中に背負っているリュックには『さくらい ふみの』と書かれていて、男の子が背負っているリュックには『はせがわ よう』と書かれている。


 柄と色は違うものの、全く同じ形をしているそのリュックは、二人の誕生日にお互いの親が示し合わせて買ったお揃いのリュックだった。


 二月十四日、同じ市内の異なる病院で産まれたわたし達は必然と一緒に成長することになる。




 手と手を繋いで仲良く歩いている二人を客観的に見ていると、再び黒いものに体を包まれる。


 そして視界に飛び込んできたのは、一生忘れることがないだろうあの日。




(よう)くん、ずっと好きでした。良ければわたしと……あ、えっと、あの……」


「……はは、緊張し過ぎじゃね? 付き合う? 文乃(ふみの)


「――っ! つ、付き合う!」


 長谷川 陽(はせがわ よう) と 櫻井 文乃(さくらい ふみの)、同じ日に産まれ隣の家に住み、同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校と進んでいくにつれ、わたしは自然と陽くんに恋をした。


 大好きだった。思春期を迎えて、あまり話さなくなっても好きで大好きで、たまたま職員室で聞いた陽くんの進路の話を聞いて告白を決意した。


『俺、北海道○□大学の医学部入りたいんです。』


 卒業まであと一年とちょっと。このまま離れ離れになったら後悔すると思った。だから、二人の誕生日のバレンタインデー、部活帰りの陽くんを家の前で捕まえて告白した。




 微笑ましい二人の姿に、少しだけ笑みが漏れる。が、それを許さんとばかりに、再び黒いそれはわたしを包み出した、


 いつもの同じ流れ、ここで目を開けたら、あとは地獄しか無い。目を開けたく無い。でも、誰かに瞼を無理やり持ち上げられる感覚がして否が応でも開けさせられる。




 そう、これはあの日。


 陽くんの部屋のベッドの上、おでこから順に降りてくる優しいキスはそのうち唇へたどり着く。


 ちゅ、と音をさせて離れた唇はまた戻ってきて、再び音をさせて離れていく。


 うっすらと目を開けると、潤んだ陽くんの目と目が合い、心なしか腰の奥が疼く気がした。


「文乃、怖い?」


「……怖く、ない」


「口開けて」


「……んんっ」


 唇に親指を這わせ、色っぽく言われた口開けて、に逆らえるはずなんてなかった。


 そっと口を開けた瞬間に貪るように食べられるように陽くんはわたしの口の中を激しく襲う。


 軽いキスは何度も交わしたけれど、こんなに深いキスなんてしたことがないからどう呼吸をしていいか分からなくて、何度も陽くんの胸を叩いたけれど止めてくれなかった。


 どれくらいの時間が経ったかは分からないけれど、ようやく唇が離れた時にはわたしは細かく息をしていて、まるでマラソンをした後みたいだなぁ、なんて空気の読めないことを考えていた。




 そして、そんなわたしを見た陽くんが突然、唇を手で押さえると小声で言ったのだ。


「気持ち悪い」って。


 驚いて陽くんに触れようとしたわたしの手を強く払って、冷たく一言だけ言われた。


「ごめん文乃、気持ち悪い……。今日は帰って」


 その後、どんなに話しかけても、陽くんの目に、わたしは映らなくなった。




 ガラガラと目の前の景色が崩れ落ちて、次のシーンが始まる。


 わたしはトイレに居て、三人組の女子に囲まれている。そのうちの一人に髪の毛を掴まれて上を向かされ、目から5cmも離れていないところにカッターを突きつけられている。


「二度と陽に話しかけんな。拒否られてんの分かんねーのかよ地味乃。きめーんだよ!」


「次話しかけたら、本気で目玉にこのカッター刺すかんな!」


 人間怖いと身体の震えが止まらないって本当だと思った。鋭利なカッターの先が真っ直ぐわたしの瞳を向いている。


 何も言わないわたしの頭をそのままトイレの床に押し付けた上に上履きで踏みつけ、用具入れからバケツを取り出して水を入れ、そのまま床に這いつくばったわたしに向かって浴びせる。


 現実逃避なのか、『夏で良かった』なんて考えながら、その三人がトイレを出て行くまで、わたしは床に這ったままだった。


 あの三人だけじゃない。いろんな人に休み時間のたびに呼び出されては殴られ蹴られ、水をかけられたのもこれが初めてじゃない。


 拒否されたあの日から早二ヶ月、声をかけても無視されるけど、それでも諦められなくてわたしは陽くんに声をかけ続けている。


 朝学校で見かけたら「おはよう」と。


 帰り側も部活に向かう陽くんの背中に「また明日」と。


 まだ別れを告げられていなかったから、わたしの中では終わりにすることが出来なかった。


 そして虐めがエスカレートしていき、ついにあの日がきた。


 カッターを突きつけられてからひと月、動じず陽くんに声をかけ続けるわたしに、彼女たちは恐ろしい仕打ちをした。


 いつも通りトイレに呼び出されて床に這いつくばらされたわたしの目の前には四人の男子生徒がいた。


 彼らはわたしの服を剥ぎ、怖くて力が抜けているわたしの身体のあちこちを好き放題に触り、しばらくすると彼らも自分のズボンを下ろし出した。




 どれくらい時間が経ったかは分からないけれど、外は暗くなってきていた。結局バージンは奪われなかったけれど、口と手では好き勝手されたし、彼らは身体や床に転がっている制服をしっかり汚してからトイレを去った。


 出て行きながら「床掃除、よろしくー」とだけ吐き捨てて。




 ふらふらでホースを取り付けるために手洗い場へ歩く。鏡を見ると酷い有様だった。


 髪の毛にもあちこちにドロついたものがこびりついて、泣きすぎて目は腫れている。身体中から臭う男性特有の匂いに、吐き気を催して床へと吐き続けた。




 ようやくトイレの掃除を終え、人が居なくなったのを見計らって教室に戻って体操着へ着替えた。


 ホースから流れ出る冷たい水で流しただけの身体からは、まだあの匂いがするような気がして早くお風呂に入りたかった。


 今日で良かった。たまたま両親は同窓会で今日は不在だ。でも、弟は部活が早く終わったら帰ってくるかもしれない。早く帰らないと。


 そのまま帰ってしまえば良かったのだ。虚ろな目で帰路につこうとしたわたしは、たまたま覗いてしまった。たまたま物音がしてちらりと目線を向けてしまった。


 陽くんの上に髪の長い誰かがまたがって激しく交わっていた。わたしにするようなキスじゃなくて、獣のようにくちびるを合わせ、その女の人の首筋に唇を這わせる。


 二人とも汗だくで、始まったばかりの行為ではないと勘付いた。


 わたしがトイレで床に転がりながら汚されていく時間、二人はここで交わっていたのかと、バカみたいな自分を嘲笑うかのように口角を上げる。




 あぁ、なんだ。わたしがあんなに声をかけても、気持ちが戻ってくるはずなんて無かった。いや、そもそも最初からわたしのことなんて好きじゃ無かったのかも。「付き合う?」とは言われたけれど、好きとは言われていないから。幼馴染だったから哀れんでおままごとに付き合ってくれていたんだ。


 すっきりした。酷い目に合わされても、明日また声をかけるつもりだった。それくらい好きで諦めなんてつくはずはなくて。


 でも、こんなところを見たら、もう頑張れないよ陽くん。


 わたしはキスで気持ち悪くなる人で、その人が本当に抱きたい人だったんだね。


 いろんな気持ちが混じり合ったからか、とても悲しいのに、悲しくて悲しくて怒りすら湧いてくるのに、不思議とわたしの体からは力が抜けて、顔の筋肉も固まってしまったかのようにか動かない。


 この日から、わたしは笑えなくなった。




 *****




「――っっっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」


 目を開けると赤い夕日が部屋に差し込んでいた、


 呼吸の合間に、ヒュッヒュッ、と鼻を空気が抜ける音がする。


 時計を見るとまだ六時で、寝付いてから三時間ほどしか経っていない。


 そしてこの夢を見た後だと、怖くてもう眠れなくなるのだ。


 眠いのに寝られない。眠気から来ているらしいこの頭痛を止めるために、市販で買った痛み止めを飲む。もう布団の中にいるのは嫌で、のそりと布団から出るとシャワーを浴びるためにお風呂場へ向かった。




 シャワーを浴びる。あの日からの癖で、わたしは髪も顔も歯も体も、三度も四度も洗わないと気が済まない潔癖症のような症状に悩まされている。


 洗っているのに、鏡の中の自分を見ると白いものがこびりついているような錯覚がするのだ。そう、錯覚。それも自覚しているのにやめられない。


 洗いすぎた顔や身体は必要以上に脂を奪われたせいか、どんな季節でもカサカサで時々皮がめくれるときもある。無駄遣い出来ないので、百円ショップで買ったクリームを塗ったら今度は痒くなりだして、掻きむしっているうちに血が出るようになった。


 たまたま夏休みで帰省していた弟の悠人(ゆうと)が、「荒れてるとこに使うものは気を使えよ!」と高そうなボディクリームを買ってくれたけど、勿体無くてちょっとずつしか塗らないので一向に良くならない。


 歯に至っては磨きすぎてか、ちょっとした刺激で歯茎から血が出るようになった。


 髪の毛も洗いすぎてゴワゴワになるので、めんどくさくて伸びるたびに自分で切ってしまっている。素人が切った髪なんて長さはまばらだし手で束ねて真っ直ぐにバサッと切るせいか真っ直ぐになってしまってまるで戦時中の漫画の子供のよう。




 自分でも気持ちが悪い自分の体。


 だからだろうか、あれから十年経っても、わたしは洗うことをやめられずにいる。普段は節電節水を徹底していても、お風呂の時だけはひたすら洗い続けてしまうのだ。


 原型がそもそもそれほど綺麗ではないうえに、ひたすら人口洗剤を塗りたくってゴシゴシと洗い続けてボロボロの体。


 昔以上に"気持ちが悪くなった"私の身体を見たら、今度はあなたは何と言うかな?






 シャワーを浴びると七時半になるところだった。


 職場の工場までは自転車で二十分、八時二十分に出れば十分に間に合う。


 もう十年、こんなナーバスな状態の体も栄養を欲してお腹は空く。仕方がなく冷蔵庫を開けると四日前に買っておいたもやしがあったので、それを油の引いたフライパンに乗せて塩と胡椒だけで炒める。その間に冷凍しておいたご飯をレンジで温めて、炒め終わったもやしを乗せて食した。




 時計を見ると既に八時十分、そろそろ家を出る時間だった。


 お皿を洗って作業着に着替えるともう家を出る時間になっていたので、母の写真に静かに手を合わせて「行ってきます」と呟いて工場へ向かった。




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