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「……イサ?」


 じっと少女と人形を見比べていたイサの耳に、ふと名を呼ぶ声が届いた。思考の淵にいたイサはそれに意識をひき戻される。

 一瞬、目の前の少女が口にしたのかと思ったが、ハナはイサのことを覚えている様子がなかった。ならば、名など知るはずもない。

 現にハナは、なにか言った? とこちらへ首を傾げている。

 では、と思案したイサに、再びそれは届いた。


「イサ、聞こえないの?」

「レキ」


 さきほどより鮮明になった呼びかけに、イサは声の主に合点がいく。


「だれかいるの?」


 わけがわからずあたりを見回すハナに、


「なんでもないんだ。ちょっと、ごめんね」


 イサが説明にもならない言葉を置いて、ベンチから立ちあがる。不思議そうなハナをそのままに、足早にベンチを離れた。

 かろうじて声が聞きとれないだろう距離をあけ、イサはポケットから鎖時計をとりだした。長針が香を焚き始めてから、ほぼ半周した位置をさしている。


「――レキ」


 声をおとして相手の名を呼べば、時計から安堵したような吐息が返った。


「イサ、やっと返事があった。ハナのところには無事に、たどりつけた?」

「ああ、それは大丈夫だよ」

「なら、よかった。ハナの様子は、どう?」

「なかなか、難しい。一見、穏やかに見えるだけに、捉えづらいね」

「でも、もう、あんまり時間ないよ。窓から見てるけど、夢追草があと半分くらいしかないもの」

「わかっているよ。それまでには、なんとかする。心配ない」


 力強く言い置いて、時が惜しいから、と時計をポケットに押しこもうとしたイサの手が、ふと止まった。


「ねえ、レキ」


 考えごとをまとめるように、ゆっくりとイサが唇を動かす。どうかしたのかと返る不思議そうなレキの声に、イサはちらりとベンチの少女を――人形を見遣った。


「別のなにかになりたいと思うこと、ある?」


 この思いは、だれにでも共通のものか。

 レキの意見を聞いたところで、確約は得られない。対象がすくなすぎるのだ。


「あるよ。どうして?」


 それでも、すくなくともイサだけの特異な感情でないとわかる。……おそらくは、一般的にだれもが一度は持ち得る気持ちではあると思うけれど。


「なにに、どうしてなりたいと思った?」


 レキの問い返しに答えることはせず、イサが続けるのに、レキはしばし悩むようだった。


「……ぅーん、鳥とか? ぼくには空を飛べないから。あんな風に自由に飛べたらいいなって思う」


 得たり、とイサが頷く。


「そう、ありがとう」

「ねえ、なんでそんなこと聞くの?」


 答えてはみたものの、やはり気になるらしいレキにイサは苦笑を浮べた。


「戻ったら話すよ」


 じゃあ、と告げたイサに、がんばって、と聞きわけよく応援が返る。それに短く応え、イサは時計をもとへ戻した。

 ハナは妹代わりの人形は好きなのだ。

 だが、人形を好ましいと思う気持ちとは別に、それが象徴するものを妬ましいと感じ、羨ましいと思っている。

 だからこそ、無意識に人形を痛めつけるし、その姿を借りるのだ。


「……顔がない、というのと、影がないっていうのは、多分同じようなことを表しているんだろう」


 ベンチへとむかう道すがら、イサが独りごちる。緩く顎を撫でた。

 顔と影がないことで、少女の心には父母の二人があるのに、どちらも印象というか存在感がひどく希薄なのだ。

 そして、少女はずっと一人ぼっちでいる。


「顔は……覚えてない、とか? 影は、なんだろう?」


 イサが足元に目をおとした。

 地面には、足から伸びる影が歩にあわせて揺らいでいる――はずだった。


「――ない?」


 瞠目して、ぴたりと足を止める。反射的に振り仰いだ空には、ハナの記憶の中にある太陽がさんさんと輝いていた。

 再び地へ視線をやったイサが、呻くように呟く。


「そう、いうことか……僕は、いない存在だ」


 となれば、あとは枯れ葉を降り注がせ続ける桜の謎だけだ。いまいち判然としない事柄も二・三あるが、桜の意味さえわかれば、概ねのことがわかりそうな気がイサにはした。


「さて。どうやって、聞きだそうか」


 春なのに咲かない桜。

 それだけならまだしも、絶えず葉を散らす意味など、ハナの口から説明してもらわねばわかりそうもない。

 すでに間近になった少女の姿を捉えながら、イサは思案げに歩を緩めた。そんな彼の脇をささめくような風がすり抜けていく。


 ――――……。


 刹那、耳を掠めたそれに、イサは足を止めた。

 振り返り、遠く、薄く靄のかかった淡い景色に目を細める。


 ――――……。


 しばらく、無言で目線を上下左右と走らせていたイサだったが、ふっと息を吐くと再びハナの方へと踵を返した。


「どうしたものかな」


 どこか苦む口調でおとし、イサはベンチへと大股に歩みよる。

 もといた場所――ハナの隣で足を止めた時、俯きがちに人形を弄んでいた少女がはっとしたように顔をあげ、


「お母さんッ」


 喜色を浮べて、勢いよく立ちあがった。膝から人形が滑りおちる。


「ハナ?」


 とさり、と放りだされた人形が地を打つ音を耳にしながら、思いがけぬ行動にイサは戸惑いがちに少女を見下ろした。


「ぁ……さっきの、おにい、ちゃん」


 立ちつくすイサの姿に、ハナからは見るみるうちに喜びが萎んでいった。

 黒曜石の輝きを纏った瞳が曇り、肩から力が抜けてだらりと腕がさがる。拍子に、少女の手からするりと風船が離れた。


「あ!」


 とっさに腕を伸ばしたイサであったが、その手をもすり抜けて、ピンク色の風船は青い空へと吸いこまれるように昇っていく。

 しかし、ハナは遠ざかる風船を目で追うこともせず、力なくベンチに腰を戻した。

 傍で見ていても心が痛むほどの消沈ぶりに、自身が悪いわけではなかったが、イサはハナの顔を覗きこむように片膝をついた。


「お母さんが迎えにきてくれたんだと、思ったんだよね。ごめんね、僕で。――風船、飛んでいっちゃったけど、いいの?」


 ハナは目もあわそうとせず、頑なに首を横に振った。それが謝罪に対するものか、風船に対するものなのかは、わからない。

 そんな少女の体に漏れそうになった溜息を抑えると、イサは足元に転がった人形を拾いあげた。人形についた土埃を手で叩き、はい、とハナへとさしだす。

 だが、受けとろうとしないハナに、イサは人形を彼女の隣へと腰かけさせた。


「お母さんたち、戻ってこないね」


 まわりに人影などないとわかっていながら、イサは姿を捜すように周囲へ首を巡らせた。


「もうすぐ、戻ってくるよ。だから、わたしはいい子で待ってるの」


 イサにむかってというよりは、自分に言い聞かせるハナが、ぎゅっと膝の上で拳を握る。


「お母さんとの、約束だもん」


 今にも泣きだしそうに歪むのに、けして涙を零さない顔は、ひどく痛々しい。

 少女はいい子で待っていれば、母親が戻ってくると信じているのだ。いや、いい子でいなければ、母親が戻ってきてはくれないと思っているのだろう。

 頑なにそう信じ、いい子で待っているがゆえに、彼女はここを抜けだしてどこへもいけない。母親が、もしくは父親が戻ってこれば、ここを動けないのだ。


 けれど、彼女は両親の帰還を望みながらも、二人が自分のもとを訪れることはないのだと無意識に諦めている。

 でなければ、ハナの持つ両親へのイメージがあんなもの――顔がないほど印象の薄い父親と、影がなく存在感のない母親などであるとは思えない。


 ただ、それならなおのこと、この世界で彼女に迎えなどくるはずもない。彼女自身が彼らに失望し、それを否定しているのだから。

 現実世界で両親が彼女のもとに揃ったとしても、ハナの閉じこもった固い殻のうちに届かなければ、目をさますことはない。

 そして、彼女がここで孤独に耳を塞いでいるかぎり、どんな声も届かないのだ。

 ――少女に必要なのは、顔をあげ、耳を開かせることができる、希望だ。


「……希望、か」


 吐息交じりに零し、イサは上を仰いだ。ベンチの横に太く根を張り、広く高く伸びた枝ぶりのむこうに、悠々とした空が望める。

 季節にあわず寒々しい桜が、ハナの気持ちの表れだろうかとイサが目を眇めた。

 ひらりとどこからか舞いおちた茶色の葉へ、イサが腕を伸ばす。捉えようとした瞬間、こちらをからかうように身を翻したそれを、無言で見送る。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」


 こちらになど興味がないと思っていたハナが、イサの手の動きを追っていた。否、彼を逃れた枯れ葉を、虚ろなまなざしで見つめている。

 声をかけたきり、口を開こうとしないハナに、イサはおちてきた次の葉っぱを今度は手のうちにおさめた。


「これが、どうかした?」


 はい、と目の前にさしだせば、ハナがおずおずとそれを手にした。


「桜の、」


 摘んだ葉をくるりと回し、ついで視線を頭上へと巡らす。


「桜の花って、いつ、咲くの?」

「……春だよ」

「は、る」

「そう、春だ。寒さがすぎて暖かさが感じられるようになったころ。花壇や道端に色とりどりの花が咲きだすころだ」


 あんな風にね。


 イサがすこし離れた場所にある、チューリップの咲き誇る花壇を指さした。

 ハナはぼんやりと彼の指の先を眺め、同じようにゆっくりした動作で首を桜へ戻す。花どころか新緑の若葉もない木に、少女の表情が深い失意に染まった。


「春なのに、桜、咲かないね」

 どうしてかな。


 小さくおとされたハナの声が、震える。

 イサはそれには気づかない風で、さあ、と彼女と同じように桜を見上げた。


「僕には、わからないな。……まるで、この木にだけ春がきていないみたいだね」


 春がきていないどころか、秋のままで時が止まっている、とはイサの声にしない思いだ。


「――桜が咲かないから、迎えにきて、くれない」


 かろうじて耳が聞きとった少女の呟きにイサの眉がぴくりと動いた。横目で彼女をうかがえば、ハナは洞のような感情のない瞳で、凝然と桜を見つめている。


「桜が咲いたら、迎えにきてくれるの?」


 かくん、とハナの頭が上下した。


「そう、約束したから」

「約束?」


 イサが、低く、ハナの意識下へそっと滑りこませるように、囁く。


「桜が咲いたら、帰ってくるって。だから、いい子で待ってて、って」

「お母さん、と?」

「と」

「いつ?」

「ずっと、前。でも、桜、咲かないから」

「……ハナがいい子で待っているのに、お母さんがきてくれないのは、桜が咲かないからなの?」

「う、ん」


 イサがハナを仰ぎ、小さく首を傾げてみせた。


「どうして、春なのに咲かないの?」


 静かに、穏やかに、イサはさきほどのハナと同じ問いを声にのせる。紫色の一対の瞳が、深長さを宿して少女をうかがっている。


「ど、して……」


 イサの言をたどたどしくなぞったハナの口唇が、ふいに、細かい震えを帯びた。

 変化を感じとったイサがそれ以上の言葉を控え、じっとハナの様子を見守る。

 幼い目元が光を弾いた。かと思うと、唇が小さく動いた。


「――して?」


 呟きを合図としたように、感情を失っていた双眸から、悲しみと怒りがあふれだす。それは、音もなく白い頬を伝った。



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