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カロン。
高く、それでいてどこか鈍いベルの音に、グラスを磨いていたイサは顔をあげた。
大きくとられた窓から覗く景色は、すでに黄昏に沈んでいる。
こどもたちがようやく遊びから戻ったのかと思ったが、店にはいってきたのは顔馴染みの客だった。
「やぁ、いらっしゃい」
「こんばんは。いい夕暮れだね」
「ええ。ひさしぶりですね、一月半ぶりですか? いいんですか今日は、こんな時間に?」
「ああ、今は月の出も遅いからね。問題ない。それに春は秋ほど忙しくはないんだ」
「そういえば、そうですね。薄荷晶が降るのは有明け方と決まっている」
「ほう、薄荷晶が降ったかい。昨日は冷えこんだんだね、ここは」
会話を交わす間にも椅子に腰かけたのは、こどもの背丈ほどの真っ白な兎だった。器用に前足でイサのさしだすメニューを受けとる。
「今日はどうします? 八十八夜にはまだ早いですが、早生の新茶がはいっていますよ」
「うーん、そうだねぇ……だけどまあ、暦にならってまだよしておこう。いつものをもらおうかな」
悩んでみせたわりに、結局定番の品におちついた客に、イサは「かしこまりました」と微笑する。返されたメニューをしまい、手早く注文の品を用意した。
「おまたせしました」
カウンターに抹茶茶碗を置き、その横に小さな木皿を添える。
「お茶請けは桜餅にしてみましたけど」
「お、季節ものだねぇ」
赤い目に喜色を浮かべ、小皿に白い手を伸ばした。
「最近はどうだい?」
味わう合間に投げかけられる常套句に、イサも常と変わらぬ笑顔をむける。
「どうということもなく。棚の品も減ったり増えたりですね、月の巡りと同じに」
「そうかい。まあ、厄介ごとがないなら、それに越したことはない」
「ええ。レキなどには、少々刺激が足りないようですけど。――どうぞ」
茶碗をあおった相手に、イサがまだ温かいおしぼりを渡せば、ありがとう、と兎は緑色に染まった口まわりを丁寧に拭った。
「そういえば、見かけないね」
「レキですか? 遊びにでていったきりですよ。もうそろそろ戻ると思いますけど」
「ああ、本当だ」
なにかを探るように、長い耳が外側をむく。――と、しばらくして木扉が勢いよく開いた。
「ただいま」
一日遊び疲れた様子も見せず、でかけた時の元気もそのままにレキとハナが帰ってくる。
「おかえり」
「やあ、レキ。今日も一日楽しかったかい?」
カウンターにあった客の姿に、一瞬ばつの悪そうな顔を浮べたレキだったが、すぐにだれだかわかったらしい。ぱっと破顔した。
「いらっしゃい! こんな時間に珍しいね」
「はは、イサと同じことを言う」
「いつもいらっしゃるのは、新月前後の宵の口ですからね」
「月の出にまにあう程度にゆっくりしてってね。――お客さんがいるし、奥にいってるよ」
最後はイサにむかって告げ、レキは兎の姿に驚いたように立ちつくすハナの手をひいた。まじまじと椅子に座る兎の姿に見入る少女に頓着することなく、いこう、と奥の扉へ歩いていく。
ひかれるままについていくハナは、それでも気にかかるのだろう。こどもらしい無遠慮さで、カウンターへ肩越しに何度か視線を投げた。
「すみません」
ぱたん、と戸が閉まったのを確認して、イサが苦笑気味に謝辞を呈する。
それに、いやいや、と気にした風もなく首を緩く振って、赤い瞳が二人の消えた方を見遣った。
「ちょっと見ない、珍しい子だね。わけありのようだけど……お客かい?」
「お客というよりは、迷子ですね」
本人は気づいてないみたいですが。
「ああ、そんな感じはする。でも、きみなら探ろうと思えば探れるだろう?」
思案するようにひげを撫でた兎に、イサは至極あっさりと頷く。
「簡単なことですよ、それくらいは。でも、あの姿でいることにわけがあるのなら、無理に戻してもどうしようもない。自分でどうにかしないと」
「本当にきみは、優しいようで冷めているようで……あいかわらずだ」
「褒め言葉として受けとっておきます。――まあ、幸いレキがいい遊び相手になっていますから、これ以上迷いこむこともないでしょう」
そう目を細めて奥のドアを一瞥したイサに、兎はやれやれと撫で肩を小さく竦めてみせた。
「なんにせよ、気をつけてあげることだ。さて、そろそろお暇するよ」
お代はこれで。
どこからとりだしたのか、カウンターに置かれた瑠璃の瓶に、イサが軽く目を瞠る。
「おや、珍しい。月光酒『真澄鏡』ですか」
「次の満月に、一晩月の光をあてておくといい。飲みごろになる」
「これはいいものを。ぜひ、そうしますよ」
「じゃあ、いい晩を」
ひらりとうしろ手に手を振って去っていく白い影へ、
「ありがとうございました。またのお越しを」
イサは丁重に頭をさげた。