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 意識が馴染み深い空気に触れた。


 夢追草の残り香に紛れる染みついた珈琲の匂い。

 座り心地が気にいっているほどよい弾力のソファ。

 窓の木枠を揺らす風の音。


 働く感覚のすべてが戻ってきたのだとイサに告げている。

 それでも彼はしばしの間、目を閉じたまま柔らかな背もたれに身体を預けていた。

 やがて、細く長く息をついたかと思うと、瞼を静かに押し開いた。

 テーブルの上、灰だけになった皿を一瞥し、そのまま膝の上へと視線を移す。いまだしっかりと抱きかかえたままの少女の人形に、イサは口元を綻ばせた。


「ああ、きみは置いていかれてしまったね」

 もう、迎えもこないだろう。


 人形に語りかけ、イサは四肢の動きを確かめるよう、緩やかに立ちあがる。人形を左腕に抱き直し、ようよう窓の方を見遣れば、木枠に手をかけ、貼りつくようにしたレキの顔があった。

 安堵と、けれど完全には払拭できない不安が複雑にいり混じっている。時折、ふらりと頭が揺れるのは、背伸びをしているからだろう。

 イサはレキを安心させるように笑顔を浮べ、右手でそっと手招いた。

 瞬時にぱっと輝いた表情が窓から消える。

 イサもまた扉に近い飾り棚へと足を運んだ。

 カロカロンッ、と普段よりもせわしないドアベルとともに木扉が開き、小柄な影が飛びこんでくる。棚の前に立ったイサが、腰にぶつかってきたそれを踏み止まって抱き止めた。


「レキ、危ないじゃないか」

「ハナはっ? 大丈夫なの?」


 苦笑気味にむけられた注意も、レキには届いていない。琥珀の瞳はイサの左腕にある人形に釘づけである。


「もう、ここにはいないよ」


 イサが告げれば、レキは嬉しさ半分、残念さ半分という顔になった。


「帰ってしまって、寂しいかい?」

「う、ん……でも、ハナがなんでもないんだったら、いいや」


 いい子だと言う代わりにレキの頭をぐいっと撫でた。二人が目を見交わして笑いあう。


「でも、ハナが戻っちゃったなら、その人形は……」

「新しい忘れ物だ」


 なんでもない風に答え、飾る場所を作らないと、とイサが棚へ手を伸ばした。


「そういえば」


 並べてある品を動かしてスペースを作りながら、イサが思い出したように口を開く。


「ハナの本当の名前は、華絵っていうみたいだね」

「見たの?」


 双眸を瞬かせたレキに、イサが頷く。左腕にあった人形を両手で持ち直すと、丁寧に空けた棚板へと腰かけさせる。


「この子をつうじてね。――もともとここへきたきっかけは、交通事故だったみたいだ」

「交通事故?」

「そう。早咲きの桜の木の下を、母子が手を繋いで歩いているのを見ていた時に、車が彼女に突っこんできてね。彼女の心の底にある思いが湧いた時に意識が身体から離れたせいで、この店にきてしまったみたいだ」

「……心の底の思い」

「うん。彼女が九つか十くらいの秋に、お母さんが年の離れた妹の手をひいて、家をでていってしまった。その時に残された彼女は問いかけたんだ、いつ帰ってくるのかって」


 人形を見つめていたイサは、シャツをひかれる感触に、視線をおとした。


「……お母さんは、なんて答えたの?」


 濡れたように悲しげに光る琥珀色に、イサはかすかに目尻をさげた。


「母親は仕事ばかりで自分を顧みない父親が嫌で家をでた。だから、戻るつもりなんてなかったんだ。でも、自分ではこども二人は育ててはいけない。小さな妹だけで手いっぱいだ。置いていく彼女に本当のことは言えなくて、母親は言うんだ。『この桜が満開になる頃に……だから、いい子で待っていて』とね」

「だけど、帰ってこなかったんだよね?」

「一年以上たってもね。おまけに家族のために仕事を一生懸命にしていた父親は、奥さんがでていったことに自分の非を認められなかった。だから、ますます仕事にのめりこんで……結果的に、彼女は一人になってしまったんだ。それでも母親との約束が胸にあるから、精一杯いい子でいた。けれど、いつまでたっても帰ってこない母親と自分を顧みない父親に、心にしまいこまれた悲しみや怒りが澱のように溜まってしまったんだね」


 それがここへくるきっかけで、福花禍実に掴まってしまった闇だ。

 そう、自身のことのように今にも泣きだしそうなレキの髪をそっと梳いたイサが、ふと外の方へ首を巡らせた。


「福花禍実といえば、忘れていたな」

「え?」


 呟いて、唐突に戸口へむかったイサに、レキが涙で潤んだ目を瞬かせる。


「ど、したの? イサ」

「ん? 彼、まだ外にいるだろう?」


 さらりと答えて、イサが扉を開けた時、


「ちょっとぉ……」


 憤りを含んだ、けれど情けない声が聞こえ、レキも合点がいく。目元をぐいっと拭ってイサのあとを追えば、イサは急ぐでもなく花盗人のもとへとむかっていた。


「やっと、きた。っていうか、あんたなにしたわけ? 手足は動くけど、この場所から全然動けないし」


 今にも降りだしそうな空の下、まいった、と小さく両手を広げた青年は、おどけてはいるが、疲労が滲んでいる。

 早くどうにかしてくれ、という言葉に、イサが笑みを貼りつけてつかつかと歩みよる。


「釘を刺しただけです」

「釘ぃ?」

「ええ。『どうなるか、わかっていますよね』と言ったでしょう?」


 ひょいっと腰を屈め、青年の足元、ほとんどなくなった影からなにかをひき抜いた。手の中で転がしたそれは、紛れもなく長い釘だった。

 一方、抜かれた途端、自由になった青年は安堵に長嘆息だ。


「はぁーやれやれ、だ。恐ろしいのに掴まったもんだね。――で?」

「このとおりですよ」


 問うように帽子を軽くあげた青年に、イサは左手を開く。

 そこには、枯れ果てばらばらになった草らしきものがのっていた。吹いた風が、乾いた欠片を攫っていく。


「ふ、ん。上手くいったらしいな。じゃぁ、おれは今度こそ失礼するよ」


 再び目深に帽子を被り、足元の鞄を持ちあげる。

 謝罪一つない花盗人に、イサが軽く眉をあげた。


「あなた方から、反省が聞けるとは思いませんがね。もう、二度とこないでください」

「そうは言っても、あんたらにとってもさほど悪いことじゃなかったはずだろ――季月亭が主人、昨日の青年と明日の少年?」


 悪びれる様子もなく背を返し、ひらりと手を振った。そのままゆったりと立ち去っていく男の姿を、イサが苦々しく見送る。


「ぼくたちのこと、知らないのかと思ったけど」


 知ってたんだね、と横に並んだレキがイサを見上げる。


「まったく。ああやって油断がならないのが、彼らの特徴だよ」


 言い捨てるようにして、イサがレキの背に手を添えた。


「中にはいろう。もう、降りはじめる」

「あ、ちょっと待って」


 そうベンチに駆けよったレキが、そこにあった作りかけの花輪と蓮華の花かごをとりあげる。すぐにとって返し、にこりとイサを仰いで隣に並ぶ。


「そういえば」


 幼い笑顔と蓮華の花の色に、眩しそうに目を眇めたイサがレキに問うた。


「レキが見た未来の、白とピンクって?」

「んとね、白は病院の天井の色。窓からピンクの満開の桜が見えたんだ」

「そう。だれか、いただろう?」

「うん! ハナのお父さんとお母さんが覗きこんで、顔をくしゃくしゃにして泣いてたよ」


 あとは、十くらいの女の子がいた。


「そうか。約束が、叶ったんだね」

「ちょっと長すぎだよね」


 憤慨した口調ではありながら、嬉しそうな笑顔のレキにイサもつられて微笑みを刻む。扉を静かに開け、自らも足を踏みいれながら、レキの小さな背を押した。


「でも、彼らには必要な時間だったんだよ」


 大小二つの背中が扉のむこうに消えたあと、そこには、カロン、とどこか懐かしい響きと揺れる木札だけが残っていた。


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