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「――どう、して? どうして、戻ってきてくれないの? どうして、私を見ないの? どうして、あの子だけ連れていったの?」


 どうして、どうして――と溶けだした思いが、少女の口から止め処なく零れおちていく。その瞳だけは、瞬きを忘れ、桜の木を見つめたままだ。

 そこに、求めて止まない、彼らの姿があるように。


「私は、いい子にしてるじゃない。桜だって、もう何度も咲いたわ。なのに、私の隣には……だれもいないじゃないっ」

「――ハナ」

「いつまでたったって、あの日と、なんにも変わらない。約束なんて、守られない。私は、ずぅっと一人ぼっちよ!」

「ハナ」

「私が、小さかったら、連れていってくれたの? みんな、離れていかなかった?」


 嗚咽を噛み殺し、胸にひた隠しに隠してきた思いを吐露し続けるハナに、イサの呼びかけは届かない。細い腕をとってもみたが、少女はイサの手を風の揺らぎほどにも感じてはいなかった。

 ただ、目が溶けんばかりに涙を流し、やるせない憤りを吐きだし続けている。


 ――触れるほどの傍にいても、この声が届かないのだ。アレでは、この子の心を揺さぶらない。


 薄靄の彼方を一瞥し、イサはハナから手を離すと、膝を払って立ちあがった。彼の動きにも身動ぎ一つしない少女を見下ろし、右手をズボンのポケットへと滑りこませる。

 ちゃらり、と軽く鎖を鳴らせてとりだした時計の針は、タイムリミットは十分を切ったと報せていた。

 だが、イサは文字盤をちらりと確認しただけで、特別焦りを浮べることもなく、


「レキ。聞こえている?」


 普段と変わらぬ調子で、どこへともなく語りかけた。


「イサッ、もう、時間ないよ!」


 即座に返った声の方が、よほど焦燥に駆られ、上擦っている。

 時計にむかって怒鳴る光景が目に浮かぶようで、イサは微苦笑を刻み、目元を和らげた。


「わかっているよ。だから、最後の仕上げを、レキにお願いしたいんだ」

「仕上げ? なにをすればいいの?」


 矢継ぎ早に問うてくるレキに、イサはことさら口調を緩めた。


「ハナの、明日を見てほしい」

「なにが知りたいの?」

「色だよ」

「わかった」


 できるか、とも確認しないイサに、こちらも気負いもない承諾を返したレキだ。

 イサの傍らで、あいも変わらずハナが身も世もなく泣き暮れる中、


「――白と、ピンク色だ」


 短い沈黙の後に、吐息混じりの、感に堪えないといった声が届いた。

 それに、イサがそっと相好を崩す。


「それは重畳……その色を、ハナに見せてあげてほしいんだ」


 イサの提言に、え、とレキの声が戸惑った。


「でも、目があわせられないと……」

「うん、レキの力は目と目を見交わすことが肝要だ。だけど、手元に僕の時計があるだろう? 僕の手のうちにもある」

「これを、使って?」


 意図を理解してなお不安げなレキに、イサが、大丈夫、と力強く請け負う。


「レキはただ、普段どおりにやればいいんだ、時計にむかってね。あとは、時計が――僕の力が、ここへ導く」


 イサはついっと視線を、秋を纏った桜へと移動させた。


「本当は僕が幸せだったころの過去を映せれば、ことはすむんだけどね。ここにいて直接力を使ってしまうと、ハナに強い影響がでて、思いもかけないことになりかねない」

 レキしか、いないんだ。


 零したイサに、数拍の空白を置いて、わかった、と意を決した固い声音が小さく響く。


「ぼくがやらなきゃ、ハナはそこからでられないんだよね? だったら、やるよ」

「ああ、頼んだよ」


 柔らかに言い置いて、イサは時計を握っていた右手を開いた。時計をさしだすように、桜の方へと肘を軽く伸ばす。

 そうしながらまなざしだけを、囚われた闇を映す少女へと流した。


「ねえ、ハナ。きみには、聞こえないかい? ずっと、きみを呼んでいる声があるよ」


 静かに語りかけるイサの声にすら、やはりハナは反応を示さない。

 けれども、今度はイサも退くことはなかった。淡々と、それでいてはっきりと言葉を紡ぎ続ける。


「そんな風に、視界を閉ざしていないで、瞳をあげてごらん。――ほら」


 あれが見えるだろう?


 つっとイサが左手をあげた。

 彼の指さす方向に、薄紅色の葉が、舞っていた。

 それは見る間に大きさを変え、小さな花弁となって、地におちる。

 少女の涙に濡れた双眸が、かすかに動いた。


「桜が、春になるよ」


 イサの声に呼応するように、茶色かった桜の枝が、徐々に鈍い淡紅色を帯びていく。

 悲恨に塞がれていた瞳が、瞬きを忘れて桜の木に見入る。

 その先で、いつのまにか白とも見紛うピンクをいっぱいに宿らせていた枝先に、小さな花弁が一つ、綻んだ。


「……ぁ」


 つられる形で、花びらのような少女の唇が薄く開いた。驚きとも感嘆ともつかない声が、隙間から零れおちる。

 その瞬間――

 ぶわりっ、と音がしそうなほどの勢いで、蕾という蕾がいっせいに花開く。


「!」


 圧巻、としか言いようのない光景に、ただただ呆然とするしかない少女へ、


「今なら、聞こえるだろう?」


 イサがそっと腰を屈め、耳へ滑りこませるように囁いた。


「悲しみも、怒りも、孤独もなにもかも、からっぽにした頭で聞いてごらん。遠くから、聞こえてくるだろう?」


 きみを呼ぶ声が、聞こえるはずだよ。


「――こ、え?」

「そう、きみの名前を呼ぶ声だ。よくよく耳を澄ませるんだ」


 一切の感情の色のない声に促され、少女が眠るように瞼を閉じる。


 ――――…ェ。


 聴覚に触れた、風に消えいる音に、ぴくりと表情が揺れた。


「……ぅさ、ん?」

「ひとつきりかい? 約束の桜が咲いたんだ。傍に、あと一人いないとね」


 ――――カ、エ。


「っ、お母さん!」


 一層冴え渡らせた耳に届いた朧なそれに、少女がはっと目を開き、見返る。

 すばやく身をひいて離れた人影に気づく風もなく、視線をさ迷わせ、立ちあがった。


「あっちだ」


 すっと顔の横に伸びた手が指し示す方向を見定めると、彼女は疑うこともせず走りだす。

 イサも人形も満開の桜にさえも目をくれず、ただ心の急かすまま、軽い足どりで地を蹴っていく。


「……やれやれ」


 振り返りもせず、薄靄に滲んでいく背を眺めやり、イサが疲れたように嘆息する。

 けれど、口調とは裏腹、表情には安堵が浮かんでいた。


「イサ?」


 控えめに響いたうかがうよびかけに、レキは手にしていた時計に視線をおとす。


「もう、大丈夫だ」

「ほんと!?」


 よかった、と声を弾ませたレキだったが、すぐに泡を食ったものに変わった。


「じゃ、早く戻らないとっ。もう、夢追草が燃えつきちゃうよ」

「わかっている。すぐに、戻るから」

「ほんとに急いでね!」


 念を押すそれに苦笑して、イサは金色に輝く時計をポケットにおとした。

 あたりを探れば、たしかに夢追草の香が薄れてきている。


「長居は無用だな」


 呟き、イサはベンチに置いていかれた人形の隣に腰をおろした。絶やさぬ微笑みを浮べた少女を見下ろし、柔らかに頭を撫でる。


「きみは、妹になりたかったんだね」

 だから、幼い少女の姿をしていたんだろう?


 もう、この世界にはない彼女に質しながら、イサはゆっくりと双眸を閉じる。

 夢追草に包まれながら最後に浮かんだのは、消えていく十四・五歳の女の子の背中であった。


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