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注)現実世界がベースになってはいますが、作者独自の世界観で物語が展開します。作品世界の説明はほとんどない、「考えるな、感じろ」タイプの作品ですので、苦手な方はご注意ください。
吐く息が白い。
肌を刺す冷たい空気は、けれどどこまでも澄んでいて。西の空をすべる欠けた月の光が、さらに清浄化させていくようであった。
東の端が淡く輝き、消えいりそうな星がそれでもまだあり続ける空は、群青色だ。
昼と夜の相見えるこの時刻の静けさに、
「あ、やっぱり降ってきたや」
響いた、少年期特有の高い声音は、どこか場違いですらあった。
コートにマフラー、手袋を身に纏った少年は、七・八歳ほどであろうか。あたりにつき添う人の姿もなく、一人、空を仰いでいた。
ちらちらとどこからともなく降りはじめた結晶を、両手で受け止めながら、嬉しそうに笑む。深く呼吸を肺に送りこめば、かすかに甘く、すっとした空気が少年の身体の隅々までいき渡った。
片方の手袋を外し、もう一方の掌につもった一際大きな結晶をそっと摘んだ。躊躇いなくそれを口へと運ぶ。
雪にも似た結晶は、しゃりっと崩れ、舌の上で溶けた。仄かな甘みと抜けるような清々しさが広がったそれに、少年は一層表情を綻ばせる。
もう一つと口に放りこみながら、少年はがさりとポケットをあさり、セロファンの袋をとりだした。手袋をはめ直した両手で袋の口を広げ、空へとむかって掲げ持つ。
その中へと緑閃石・藍閃石色の結晶が、一つまた一つと吸いこまれるようにおちていく。
どれくらいそうしていただろう。
袋に三分の一ほど溜まったところで、少年はようようその腕をおろした。
袋の口をしっかと握り締め、目の前でそれを二・三度振る。動きにあわせて透明なフィルムの内側で、碧の輝きが踊るように跳ね回った。
「よし」
満足げに頷き、少年は再び空を見上げた。
東の地平線はだいぶ明るさを増している。
「急がなきゃ」
琥珀色の目を細めて独りごち、くるりと有明の月に背をむけた。
たっと軽い足どりで走りだし、その勢いに少年の絹のような黒い髪から、纏わりついていた透明な欠片が零れおちる。コートから、マフラーから、はらはらと舞ったそれらは、所在なげに地へ転がった。
足音と袋の中で擦れあう結晶の音が、少年の背を追いかける。
それらを振り払うようにして、少年は一目散に一軒の家へとむかっていった。
こじんまりとした建物の、大きな窓からはオレンジ色の光が滲みだしている。その暖かみにひかれるように、少年は木の扉の取手を握った。
季月亭
【開店時間】陽が中天に昇るころから夜の帳が降りるころまで
そんな木札がひっかかるドアを、難儀そうに押し開ける。
「ただいまっ」
「ああ、おかえり」
カロン、と鳴った鈴と高らかな声に、カウンターの奥にあった人影が顔をあげた。額にかかった柔らかな薄茶の髪のむこうから、紫の瞳が覗く。
「やっぱり降ってきたようだね、薄荷晶」
レキはあいかわらず勘がいい。
そう、笑顔で出迎えた二十歳そこそこの青年に、こちらも笑みを絶やさずレキと呼ばれた少年が駆けよった。
勢いのままに自らの背丈からはすこし高めの椅子をよじ登り、カウンターに手をついて身をのりだす。
「冬は終わったけど、昨日の晩は寒かったでしょ? 月も綺麗だったし。今年最後の薄荷晶が降ると思ったんだ」
季節を運んでくる四季草に、春を告げる『花初』の花が咲いたのは、もうずいぶんと前のことだ。
だが、花冷えの言葉どおり、桜が満開になる時を計ったように、昨夜は真冬並みに冷えこんだ。
冬の月の綺麗な早朝に、澄んだ空気が月光を凍らせて降るのが薄荷晶だが、条件が揃った今朝なら見られるとレキは踏んだのだ。
はたして、勘が得た戦利品を、レキは目前に掲げた。
「ね、イサ。結構、とれたでしょ?」
「そうだね。お茶にするかい?」
「もちろん!」
提案に一も二もなく頷いたレキに、イサが微苦笑を口元に刻んで、読んでいた新聞を脇に置いた。スツールから腰をあげ、ケトルを火にかけたイサへ、
「早く早く。せっかくの薄荷晶が台無しになっちゃうよ」
レキが焦れたように声をあげる。
薄荷晶を溶けこませた湯でいれたお茶は、抜群に美味しいのだ。
だが、それも太陽が昇りきるまでの間しか味わえない。
雪とは違い、そうそう簡単には溶けない薄荷晶だが、太陽の光を浴びると瞬く間に消えてしまう。
所詮は月の光だ。太陽の輝きの前には儚くなるしかない。
また、せっかく陽光を逃れて手にいれたそれも、日が完全に顔をだしてしまえば跡形もなくなってしまうのだ。
急かすレキの手から、イサは苦笑いのままに袋を受けとった。
「わかっているよ。それに、太陽が昇りきるまでには、まだ時間はあるさ」
ざらざらと中身をケトルに移す。
「ついでだ。朝ごはんも一緒に食べようか」
湯を沸かす横で、フライパンもまた火にかけられた。
流れるような動作で、卵とソーセージを投入するイサの手元を楽しげに見つめていたレキが、ふと顔をあげた。
「そういえば、ハナは? もう起きた?」
「彼女なら、まだ寝ているよ」
「そっか、残念。薄荷晶が降るところを見せたかったのにな」
「彼女も、色々とね――疲れているんだ、きっと」
言外にそっとしておけと告げてくるイサに、レキも無言でわかっていると顎をひく。
そんなやりとりの最中にも、イサの手は休むことなく動き続けた。沸いた湯の具合をたしかめ、茶葉のはいったポットに注ぐ。洗ってちぎった菜を皿にもり、半熟の目玉焼きとソーセージを流しいれる。
無駄のない手つきはあっというまに食卓を整え、最後にカップに注がれたお茶は、爽やかな甘い香気を漂わせた。
「はい。お待ちどうさま」
目の前に置かれたそれを嬉しそうに見つめ、手をあわせたレキは、さっそく器をとった。両手で包みこむように持ちあげ、琥珀色の水面に息を吹きかける。
申し訳程度に冷ましたお茶を口に含み、熱さに思わず顔を顰める。が、その味と香りに満足げに微笑んだ。
サイダーにも似た、口の中で淡く弾ける甘みを楽しみながら、レキが窓の外に目を移せば、茜色に染まった空が見える。
「今日もいい天気になりそうだね」
こちらもカップを傾けながら眺めやったイサに頷きを返して、レキはフォークを手にとった。
「食事がすんだら、店を掃除してくれるかい? 終わったら、ハナと遊びにいってきていいから」
「うん、わかった。今日は、お客さんの予定は?」
「特別、はいっていないよ。だから、いつもどおりの営業だ」
「また、おもしろいお客さんがきたら、教えてね」
「おもしろいといえば、この間きた人がちょっと変わったものを置いていってね――」
とりとめもなく言葉を交わし、食事を進める二人をよそに、窓の外では太陽が見る間に夜を払拭していく。景色を蒼色に滲ませていた暗さが去り、代わりのように光が大地を染めあげていく。
やがて、冷めたお茶から薄荷晶の名残が消えたころ、軋む物音にイサが顔を巡らせた。
「ああ、起きてきたかな?」
ゆっくりと立ちあがり、表の扉とは別の、店の奥にある戸口へと歩いていく。閉ざされた戸の真鍮のノブをひき開ければ、薄い暗がりに、女の子が一人佇んでいた。