弾き手を選ぶギター
「へぇ、あの子唯織っていうんですか」
「やっぱり自己紹介もしてなかったか。女の子みたいな名前だろ?」
「そ、そうですね」
「だからあんまり名乗りたがらないんだよ」
ここに来るきっかけとなった少年はこの場にはもういない。彼が唐突に帰宅してから十分ほどが経って、スタジオに楓は店員の啓輔と二人。話題はもちろん決まっている。
「いきなり下手くそって言った!? あいつマジか……」
「えぇ、いきなりそんなこと言うなんておかしな人だと思いましたよ。あと私のギターを見てガラクタだって」
「ガラクタねぇ。ちょっとギターを見せてもらっていいかな?」
「あっ、はい」
楓は自分が担いでいたギグバッグを啓輔に手渡す。彼はその中から白いSGを取り出すと、隅々まで値踏みするように見つめる。そして微かに笑みを浮かべる。
「いきなりSGとはなかなかに渋いチョイスだけど、でもこれは確かに難ありだね」
そう言うとSGを構え、軽く弾いてみる。アンプを繋いでいないものの、しっかりとした音色で啓輔の腕もかなりのものだと分かる。聴いたことはないフレーズだが、心地よく耳に残る。
「俺もこう見えて昔バンドやってたからさ、多少は弾けるんだ」
「今はやってないんですか?」
一応「そういう風にしか見えません」という言葉は呑み込んだ。
「まあ何ていうか、プロってやっぱ違うんだよ。光るものがあるっていうか、生まれ持った才能っていうのかな。それが俺にはなかった、ってだけ。でも今は夢を追う人たちに力を貸すために楽器店を始めたのも間違いじゃないと思ってるよ」
そう言いながら微笑む彼に一瞬影を見た気がした。
「って俺の話は今はどうでもよくて、このギターね」
そう言ってSGを楓にも見えやすいように構える。
「軽く見たとこ、これは確かギブソンのSGスペシャルヴィンテージ。確かに良いギターだし、それなりに値も張る代物だとは思う。でも、あいつが言ったガラクタってのも良く分かる」
「それはどういう……」
「まずネックがかなり順反りしてて、そのせいでかなり弦高が高くなってる。これだと慣れてる俺ならまだしも、初心者の楓ちゃんには弾きにくかったんじゃないかな。何処の楽器店で買ったのかは知らないけど、こりゃ酷い代物を掴まされたね」
「順反り……弦高……?」
「まあ難しいことは今は置いとくとして、おそらく保存状態が雑だったんだろう。あと初心者に基本調整もしてない楽器を手渡すなんて不親切だ」
そう言われ楓がギターを購入した時のことを思い出すと、対応してくれた男性店員は笑顔もなく口調はボソボソしており聞き取りづらく、とても好意的とは言えなかった。その時は初めての楽器店だったためそんなものかとあまり気にしなかったが。
「それはそうと、見たとこ楓ちゃんは手もあまり大きくないみたいだし何でSGを?」
基本初心者が最初に買うのは格安ブランドのレスポールタイプかストラトキャスタータイプが主流。手が小さい場合はネックが薄いストラトキャスターを選ぶのがマストとされるもの。もちろん憧れているアーティストや見た目に惹かれる場合もあるが。
「うちの軽音部はロック系のバンドだからパワーのあるギターが良いかと思って、でもレスポールは重くて肩にかけるのは厳しくて。他のハムバッカーのギターを見てたら定価が高くて値引きされてたから、もうこれしかないかなって」
「なるほどねぇ。ホントは楽器店経営者兼元バンドマンとしては違うギターを勧めたいとこだけど、そういう事情なら仕方ない。今からでも調整してあげるよ。もちろん無料でね」
「えっ、いいんですか?」
啓輔は悪戯っぽく笑うとSGを持ったまま立ち上がり、扉を出てすぐ「春花!」と大声で叫ぶ。どうやら店員は他にもいるらしい。その店員にギターを渡して戻って来た啓輔は新たに持って来たもう一脚パイプ椅子を置き、そこに座る。
「三十分くらいかかるから、その間に唯織について話してあげるよ。スイレンが好きだった君は知っておいた方がいいから、ってより気になるでしょ?」
「ぜ、是非お願いします!!」
食い気味な返事に一瞬驚いたようだが、啓輔はすぐに元の笑顔を浮かべる。
「俺の弟と唯織は幼稚園からの仲でさ、家にも良く遊びに来てたんだ。それはまだあいつがギターを始める前だったな」
幼い頃は明るく社交的だった唯織。話は彼が小学生の頃天才ギタリストとして脚光を浴びたことから始まり、周囲からの過度の期待と重圧に負け挫折。それからは内向的になり、周りから距離を置くようになった。それはまるでドラマのシナリオの様だった。
「それから月日は流れずっと音楽から離れていたあいつを、俺はもう一度輝かせてやりたくなった。多分自分が叶えられなかった夢を、才能のあるあいつに託したかったんだと思う」
「それがスイレン?」
「そうそう、形はどうあれネットでは有名になったし、技術はそこら辺のセミプロには負けないと思ってたからな。まあ、女装っていうのはあいつの正体がばれないようにってのもあったけど、予想以上に様になってて途中から本人以外はノリノリっていうか」
「確かに中性的な顔立ちですもんね」
体格もそうだが唯織はあまり男らしくない。身体も薄いし、顔も中性的。髪を伸ばしてメイクをすれば女子だと言ってもバレないかもしれないほどなのだ。もちろん愛嬌はないが。
「まあ、粗方を掻い摘んで話すとこんな感じだな。質問は?」
「啓輔さんはもうバンドやらないんですか?」
「固いなぁ~。もっと砕けた呼び方で啓輔、啓ちゃんとかでいいよ」
「なら啓ちゃんさんで」
「それ砕けてる? まあいいや。勿論楽器店を経営している身としては多少は弾けないと恰好つかないけど、自分の限界を知っちゃったんだよ。凡人には越えられない壁をね」
楓にはその気持ちが分からなかった。何故ならそれほど何か一つのことに打ち込んだことがなかったのだ。
楓は要領が良かったためなんでも人並み以上には出来た。勉強だって授業だけでほとんどのテストは解けたし、高校受験も特に根詰めて勉強した記憶もない。運動神経も平均以上だし、自分で言うと嫌味っぽいが容姿もそこそこの自負がある。そんな楓が唯一誇れるのは歌唱力だった。
しかし未だに誰かに披露したこともないし、その勇気がなく自己完結してしまっている。だからこそ壁に当たることもなかったのだ。
「まあ、楓ちゃんも将来的にバンドするなら分かる日が来るかもね」
楓の表情から何かを察したのか啓輔は大袈裟に笑って見せる。
「さて、そろそろギターが仕上がってると思うけど、もう気になることはない?」
「えっと、あ、あのギターは……」
そう言いながら楓が指差したのは机の上に置かれたギターのハードケース。その中にはスイレンとして投稿された動画で使用されている黒いストラトキャスターが入っている。
「あのギターは彼の私物なんですか?」
「あぁ~、スイレンのファンとしては気になるよな。あれはうちの在庫品なんだよ」
「在庫品ってことは売り物なんですか?」
「いや、売り物――でもないんだな、これが」
「それは、どういう?」
困惑気味の楓に説明するより早いと判断したのか啓輔はギターをケースから取り出し、楓に向かって差し出す。
「えっ、持ってもいいんですか?」
「もちろん、軽く弾いてみるといいよ。そうすれば分かるから」
手渡されたそれはSGとは全くの別物だった。本体はかなり軽く、ネックやボディーはサラサラとした手触り。体にフィットするボディーシェイプと小さい手でも握りやすい薄めのCシェイプ。初めてのストラトキャスターに楓は感動していた。
「これ使って」
そう言って机の上に置かれた丸い缶ケースを開け、楓に差し出す。中には形や色、厚みが異なるピックがこれでもかと詰め込まれていた。楓はその中からミディアムのティアドロップを取り出す。
いまだに興奮気味ではあるが、この機会を逃す手はない。シールドをポッドに刺し、楓は恐る恐る一時間ほど前まで音楽室で練習していた軽音部のオリジナル楽曲のフレーズを軽く弾いてみる。ピックが弦に触れアンプから音が出力された瞬間、まるで稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。
えっ、何これ―――!!
次元が違うと、楓はそう感じた。弾き易さもそうだが、音の厚みも全く違う。重く厚みのあるSGに比べ、このストラトはハイパワーの中に芯がある。一音一音が輝いているような、そんな気がした。心の底から楽しいと思えるこんなギターならいつまでも弾いてられる。そう思った瞬間、楓を違和感が襲う。
あれっ、何か……気持ち、悪い……。
今まで弾むような楽しい音色だったのに、急に潰れたような耳障りな不協和音に一転した。立て直そうとしても手遅れで、みるみるうちに音が離れていく。
楓は弾く手を止める。
「気づいたね」
「はい、何だか音が気持ち悪いです」
「気持ち悪い、か。このギターはね、チューニングがすぐに狂っちゃうんだ。もちろんパーツを新しいものに交換しても、必ず一分もしないうちにはね」
「えっ、でも……」
楓が疑問を持ったのも無理からぬこと。何故ならそのギターを数分前にスイレンこと唯織が何の不自由さもなく一曲をフルコーラスで奏でていたのだから。もちろん楓が手にした時もチューニングは狂っていなかった。
「そう、あいつだけ特別なんだ」
啓輔曰くそれには唯織の弾き方や癖が影響していると考えられているそうで、他の誰が真似して弾いても結果は同じそうだ。つまりはっきりとした理屈は解らないが唯織以外には弾くことの出来ない唯一無二のギターというわけだ。
「これを聞いても買う人がいるなら売ってもいいんだけどね。ガッカリしたかい?」
「えっ……」
「そのギターは数年前に潰れちまった工房で作られたオーダーメイドの逸品だ。しかもスイレンに憧れてギターを始めた楓ちゃんにとっては喉から手が出るほど欲しい代物なんじゃないのかなって」
楓は言葉が出なかった。
もちろんさっきの演奏を聴いて感動したのは事実だが、唯織の過去も知った。その上で望んでもいない者の元にあるより、欲する者の手にある方がギターも幸せなんじゃないかと思う。
でも、
「確かに私はスイレンに憧れてギターを始めました。だからこそこのギターを何が何でも手に入れたいと思ってます。でも、それは彼が本当にギターを嫌っているなら、ですけど」
「ほぉう……。つまり、君はあいつが今でもギターが好きだと?」
楓の言葉に啓輔は何とも言えない表情を浮かべ、問い返す。
「ギター初心者の私にだってわかりますよ。あんなに楽しげな音色は嫌々弾いて出るものではありません。ギターを弾くことを心の底から楽しんでないとね」
黙って楓を見つめる啓輔に楓はギターを差し出す。
「ははっ、こりゃ参ったな。まあ俺もそう思ったからあいつにギターを諦めて欲しくなかったんだけどな」
啓輔はそのギターを受け取ると嬉しそうに豪快に笑う。すると開いた扉の向こうから一人の女性が顔を覗かせる。
「啓ちゃん、もうとっくにギター出来てるんだけど。あともうじき閉店時間だから最後くらいちゃんと仕事してよね!!」
手にしていたギグバックを啓輔に押し付けるとキツめな言葉を残して女性店員は戻っていった。どうやら単に店主と店員というだけでなく、もっと親しい友人のような関係らしい。
啓輔は腕時計を確認すると時間はもう十八時半を回ろうとしていた。
「おっと、もうこんな時間か。遅いし家まで送るよ。店の車だからあんま恰好よくはないけど」
そう言ってポケットから車のキーを取り出して見せる。どうやら閉店業務をサボりたいのだろう。そうと分かれば答えは簡単だ。
「まあ一応啓ちゃんさんは信用してますけど、この時間ならまだ明るいので遠慮しておきます。それに店長ならちゃんと仕事は終わらせて下さいね」
それに今日が初対面の相手の車に二人きりで乗るのもちょっとどうか―流石にガードが甘すぎるような―とも思うし。
「まあ、そりゃそうだ。これ以上サボってたら家で春花に愚痴られて、肩身が狭くなっちまうからな」
家で愚痴られたり肩身が狭くなるってことは、もしかして兄妹なのかな?
「今日はありがとうございました」
「いやいや、こっちこそ唯織が迷惑かけちまったからな。お相子ってことで」
楓はギグバックを啓輔から受け取り、自分の鞄を肩に掛け従業員用スタジオを出る。
「一応聞いておきたいんだけど、楓ちゃんの中で何か変化はあった?」
楓の背中に真剣みを帯びた啓輔の声が掛けられる。
思い返せばめちゃくちゃな出会いに、圧巻、困惑。いろんな感情が混在した一時間だった。だからかもしれないが言葉はスルスルと出てきた。不思議なほどに。
「そりゃ、憧れてたスイレンがあんな口の悪い男の子で、正直言葉を失っちゃいました。私はスタイルも良くてかっこいい女の子だと思ってましたから。第一印象最悪、口を開けば憎まれ口ばっかで振り回されっぱなし。でも、数か月前に私がスイレンの演奏に心動かされたことに変わりないし、その時の気持ちを否定するつもりもありません。そうですねぇ、もし変わったことがあるとするならば、意地でも唯織にギターを弾かせたいと思いました」
そこまで口にしてようやく気付く。自分は彼にギターを辞めないで欲しいのだと。
だからこそ最後の一言は自分への決意表明だった。
「私思うんですけど、憧れは届かないからこそ尊いんです。そこに追いつきたいと思うから頑張れるんです。だからスイレンにはいつまでも私の前を走っていてもらわないと」
啓輔に一礼して楓が楽器店を出ると、辺りは夜の帳が下り始めていた。夏が近づき生暖かい風が髪を撫でる。
最近は両肩に掛かるギターの重みが重圧のようで苦しかったが、今はその重みが妙に心強かった。