黒いスカーフの少女
ねえ先生、知ってますか?
黒いスカーフを巻いた少女のこと。
そうさねえ……。彼女に初めて会ったのは…小学校の入学式でしたよ。
ああ、看護婦さん、笑ってるね。こんなじいさんに小学生だった頃があったなんて想像もつかないって言うんだろう?
けど、私だって、生まれたときからじいさんだった訳じゃない。赤ん坊だった頃も、小学生の頃も、ちゃんとあるさね。
入学式に行く途中で、初めて彼女に会ったんだよ。真新しい服を着て、真新しいカバンを持って、お袋に手を引かれながら、少し緊張していたっけねえ。
……あ、看護婦さん、また笑ってるね。若い人にとっちゃあ、こんな年よりの昔語りなんぞ、滑稽か退屈かのどちらかなんだろうけどね。まあ、少し我慢して聞いておくれよ。どうせもうこれで、最後なんだからねえ。
……ああ、いいんだよ、先生。そんなにムキになって否定しなくったって。自分の死に時くらい、言われなくたって分かるもんさ。
ええと、どこまで話したっけかね。
そうそう。入学式に、お袋に手ぇ引かれて行くところだったねえ。
校門のすぐ近くに、彼女が立ってたんだ。
黒い髪をおかっぱに切り揃えて、首に黒いスカーフを巻いた少女が。
……え?
どんな服を着てたか?
やれやれ。女の子ってのはこだわるところが違うねえ。
………。
おや。
さあて。
妙だね、覚えてないよ。
彼女の髪と、あの大きな瞳と、黒いスカーフは覚えているのにねえ。
ああ、そうだね、先生。
それが、すごく印象に強くて、きっと他のことは忘れちまったんだろう。
彼女を見てね、最初は入学式の手伝いに来てる役場の人かと思ったよ。
なに、今考えると、そんな年じゃあなかった。せいぜい、12、3歳ってところでね。
けど、小学一年生には大人に見えたんだよ。あるいは、スカーフの所為で大人っぽく見えたのかも知らん。
え?
上級生じゃなかったのかって?
いや。
狭い町だ。
子供らはみんな知り合いさね。
今までに見たことのない少女だった。
まあ、とにかく。
そのときはそれほど気にしなかったんだ。
けど、式が終わって、何週間か過ぎたころ、ふと、友達に聞いてみたのさ。「入学式の時に、校門のところにいた女の人、知ってる?」ってね。
聞いた理由?
ないよ。
会話が、何かの拍子に、ふと途切れることがあるだろ?
あれさ。
で、新しい話題を持ち出そうとして、ふと思いついただけだ。
けど、聞いて驚いたね。
誰一人見てないんだよ、彼女を。
その中には、私とほぼ同時刻に学校についた奴もいたってのに。
「キツネにでも化かされたんじゃねえのか?」
誰かが言って、その時はそれで終わった。
それ以来、ずうっと、その少女のことが気になった。
幻なんかじゃあ、ない。それだけは確かだ。
彼女の影が校門に落ちていたこと、ちゃんと覚えてるんだ。幻だったらそんなものない。
気にはなったが……まあ、それだけだ。確かめる術はない。
2年、3年経つうちに、そんなこともあったなあ、程度のことになってきた。
だけど、不思議だねえ。彼女のあの瞳と、黒いスカーフだけは、記憶から消えないんだよ。
そのうち、その記憶がそこにあることに、慣れっこになっちまったけどねえ。
ほれ、天井の染み。あれみたいなもんさ。
あの染みを、じいっと眺めてると、何かの形に見えてくるだろう?何か見えないかなって思って見てると何かに見えてくる。
でも、普段はそこに染みがあることにも気がつかない。あの感じさ。その気になって記憶を探ると、確かにそこにあの少女がいる。けど、普段は気がつかないんだ。
……え?
ああ、そうか。
最近の天井は染みもないんだねえ。
なんだか寂しいねえ。
………。
え?
何か言ったかい、先生?
その後?
ああ。会ったよ。
二度目は、戦争に行く前の日だった。
明日は出陣かと思うと眠れなくてねえ。その辺をぶらぶらと歩いてたんだ。
あれは、近所の境内だった。
月がきれいな晩だったねえ。
彼女がそこに立ってたんだ。まるで、私がそこに行くことを知ってたかのようにね。
いや。
きっと、知ってたんだろうねえ。
驚いたよ。
だって、彼女は年を取ってなかったんだから。
あのときのままの、姿だったよ。
おかっぱ頭に、大きな瞳。そして黒いスカーフ。
私は、馬鹿みたいにそこに突っ立ったままだった。
どのくらいそうしていたのかねえ。
一時間以上、だったような気もするし、ほんの五分くらいだったような気もするよ。
ふいに、少女が喋ったんだ。
「ツカマエテ」
確かにそう言った。そう言ってにっこり笑った。
いや。
にっこり、っていう感じじゃあないな。
なんて言ったらいいのか………。
不思議な笑い方だった。
少女のような、大人の女のような……。
「…い、今は、だめだよ」
何でかねえ。そう答えてたよ。
「戦争に行くんだから」
「ダッタラ」
彼女は言った。
「帰ッテ来タラ、ネ?」
「…帰れないよ」
「ドウシテ?」
「戦争だから」
「大丈夫。帰レルヨ」
そう言って、少女はいなくなってしまった。気がつくと、姿がなかったんだ。消えてしまった。そんな感じだった。
それから私は戦争に行った。
あの少女は、きっと私の守護霊に違いない。
そう、思うようになった。
だって、結構、危ない目にも合ったけど、何とか生きて帰れたからねえ。
けど、帰って来てからも、戦争だったねえ。
生きて行くための。
必死だったよ。
………。
実はね。
時折、現れたんだ、少女は。
あのほほ笑みを浮かべて、そして言うんだ。
「ツカマエテ」
でも、それどころじゃなかった。
生きるのに必死でね……。
………。
でもまあ。
そのうち景気も回復した。
私も、会社に勤めることができた。あまり大きくはなかったけどね。
結婚もした。子供も出来た。
そして。
また彼女が現れたんだ。
残業で遅くなって、ようやく間に合った終電車の中でね。
「ツカマエテ」
少女が笑った。
「よし、捕まえてやる」
初めて、そう答えた。少女は、実に嬉しそうに笑った。
そして、くるりと身を翻した。黒いスカーフがなびいた。
少女を捕まえるのは、簡単そうに思えた。
ところが、これがなかなか捕まらない。
捕まえたと思ったらすうっと消えるんだ。
そして、向こうの方で笑ってる。
奇妙な追いかけっこだった。
電車が止まった。
少女がホームに降りた。
私も追いかける。
捕まえたと思ったらすうっと消えて………。
その日はそれで終わりだった。
ふと気がつくと、自分の降りるずっと手前の駅だった。
電車はもう、行ってしまった。
しかたなく、そこからタクシーを拾って帰ったよ。
え?
女房は何も言わないさ。
残業で終電車を逃して、タクシーで帰るなんざ、ザラだったからね。
いや、その日、タクシーで帰ったことすら知らないんじゃないかな。だって、帰ると寝てるんだから。無理もないがね。
その日を皮切りに、少女に振り回される毎日が続いた。
少女には、場所も時も関係ないらしい。私が何をしていようが、どこにいようが、おかまいなしに現れた。会議中だろうが、取引の最中だろうが、構わずね。
そしてその度に、私は追いかけずにはいられないんだ。
何でかねえ。
え?
ああ、そのとおりだよ、先生。
仕事はメチャクチャさ。
会社はクビになった。
女房子供にも愛想を尽かされた。
仕方ないさね。
当たり前さね……。
………。
………。
でね。
ある日、とうとうたまりかねて、少女に言ったんだ。
「もうたくさんだ!」
って。
「もう、追いかけない!」
途端に、少女はひどく傷ついたような、哀しそうな表情になったよ。
「ドウシテ?」
少女は尋ねた。
「何もかもお前の所為だ!」
それは、八つ当たりだったのかもしれないねえ。
「お前がいなければ、こんなことにはなってなかったんだ!」
少女は、黙ってうつむいたまま、すうっと消えていったよ。
消えて初めて、気が付いた。
彼女が、今までで一番近くにいたことに。
手を伸ばせば、届くところにいたことに。
怒鳴りつけずに、手を伸ばせば…ひょっとすると、捕まえられたのかもしれない。
………。
………。
……いや、消えてしまっただろうね。
そういうもんさ。
ま、それから先は、お決まりのコースさね。
………。
………。
それでも、時々、本当に時たま、彼女が現れたよ。
最後に見た、あの哀しそうな目で。
でも、何も感じなかった。
追いかけようって気には、もうならなかったよ。
彼女も、もう二度と、ツカマエテ、とは言わなかった……。
………。
………。
ねえ、先生。
あの時、追いかけるのをやめてなかったら。
どうなってたかねえ。
いつかは、捕まえられたのかねえ。
あの、黒いスカーフの少女を………………。
救急車で運び込まれた一人のホームレスが息を引き取った。
医師は、後の処置を看護婦に任せて病室を出た。
病院の、薄暗く長い廊下の隅に
少女がいた。
医師が、当の昔に追うのをやめた
黒いスカーフの少女が。
哀しげな笑みを浮かべて。
「ひょっとして…」
医師が呟く。
「もう一度、挑戦出来るのかい?」
その途端。少女の顔に、ほほ笑みが戻った。
あの、少女とも、大人の女ともつかない、妖しく、無邪気なほほ笑みが。
~ 完 ~