Sea serpent
晴れ渡る空に青い海。海鳥が群れをなす、美しい光景。
けれどその港に船は一隻も無い。
桟橋に青いローブの魔導士が立った。虹色の光沢を含んだ白い杖を構えて、その銀色の髪を風が揺らす。
「ーー我は溢れし力を受ける器。月の女神の騎士、魔法の光満つる地に在りし魔導の徒。深淵なる海より現れよ、双星の竜」
重く低い艶やかな声で。しなやかにその腕を伸ばして、呪文を唱える彼。リティアはその後ろ姿をじっと見つめた。
魔法を使う時のシーファは、とても綺麗だ。
男性に言うのもおかしいけれど、でもそうとしか表現できない。真剣な瞳も、揺らぐことのない身体も、杖を振るう腕も、指先でさえも丁寧で。普段の不遜な態度や口調など、カケラも感じない程に繊細で、優しい。
「見とれてるんだ?リティアさん」
アランが軽口を叩くが、彼もシーファから目を離さない。ラセイン王子が微笑んだ。
「シーファは不思議ですよね。魔導士であることを嫌うけれど、魔導士であることを否定することはない。魔法を使いたがらないくせに、魔法を愛しているように見える」
ああ、王子の言うとおりかもしれない。
リティアは師を見つめたまま、頷く。
いつだって、私の前にいて、いつだって、その道を示してくれる。
ーー私は?
ふと思う。私は、魔導師になりたいんだろうか。魔法を、好きなんだろうか。
今までは魔導士シーファに引き取られた身として、生きるために必要だと思っていた。アルティスの秘石が現れてからは、もう自分の一部だ。長い間アルティスが現れないことに、不安を感じるほど。
胸の奥の秘石に意識を向けた瞬間、
『ーーティア、ーーない……!』
かすかに響いた、声。
「アルティスーー?」
リティアが聞き返したその先で。
“ザアアアッーー!”
海面が大きく膨れ上がった。荒れ狂う波に、水飛沫がこちらまで飛んでくる。
「海竜だーー!!」
騎士団の叫び声と共に、水を割って現れたのは。
「ーーっ!!」
煌めくウロコに包まれ、ヒレを持った大蛇ーー。
馬車ほどの頭を持ち、首は大人5人が腕を伸ばし繋いで届くかと言うところ。身体は数十メートルはありそうだ。そして、それは、喚び出した魔導士の眼前に現れ、彼を睨み付けたーー。
その目に込められた敵意に、リティアが叫ぶ。
「シーファーー!」
『ーーガァッーー!』
魔物が咆哮と共に動いた。信じられない程の速さで海竜は彼の身を噛み砕こうと迫り、その巨大な口を開く。そこに光る鋭い牙を、目の前の魔導士に突き立てようとした。
「お師匠様っ」
「ーーお仕置きタイムだ、馬鹿者め!」
リティアの声が届く前に、シーファの呪文が発動する。
海竜を跳ね返し、その身体にバチバチと細かな稲妻を纏わり付かせる。魔物は鬱陶しげに身をよじってそれを払い落とすと、再度その牙でシーファへと襲いかかった。
「ーーアディリスの海竜は現れたか?」
ラセイン王子が魔法で映像を繋いだもう一方の様子を問うと、小さな鏡からはラクロアの切羽詰まった声が響く。
『まだ現れません!』
王子は一瞬シーファの方を確認すると、鏡に向かって指示する。
「召喚し続けろ。現れたらすぐに知らせるんだ、いいな」
海竜は確かに強かった。というよりも、あまり攻撃が効かないのだ。リティアはその様子を見て、不審に思う。
おかしい、いつもならシーファの魔法はあんなものではない。先ほどの稲妻の魔法は、もっと敵を打ち砕くようなもののはずだ。
アディリスの月の女神の言葉を思い出す。彼女は剣で海竜の首を斬り落としたと。
「ラセイン王子、あの魔物には魔法はあまり効きません!剣で斬らないと」
ラセイン王子はシーファに向かって声を張り上げる。
「シーファ、下がって下さい!」
剣を掴んで走り出す彼に、アランと騎士が続く。リティアは彼らに防護魔法を掛けて援護した。シーファは海竜の動きを鈍くする呪文を唱え、その隙にセインティアの騎士達が海竜に斬りかかる。
さすがに世界一の結束を誇る精鋭だけあって、騎士達の息は見事に合っており、だんだんと魔物の動きが鈍っていくのが目に見えて分かった。
「効いてる!」
思わず呟いたリティアだったが、しかし海竜は二体同時に倒さないとまた再生してしまうのだ。
「あの、そっちはまだ現れませんか」
彼女に残された鏡に向かって呼びかけると、同じように通信装置を持っているのか、少女の紫水晶の瞳がこちらを見た。
『ーー居ないわ。ここには居ない。海竜の気配を感じないの。ーーっ、まさか!』
女神の緊迫した声に、ハッとリティアも気づいた。アルティスが伝えようとした、危機は。
「ーーシーファ!ここにもう一体いるーー!!」
リティアの声に、全員が一瞬硬直した瞬間。
巨大な水柱が上がり、
『ガァァアッーーー』
海面下から一気にもう一体の海竜が現れた。
その姿を確認する間もないまま、二体の海竜が吹っ飛ぶように桟橋へ向かってきて。双頭の竜が騎士達を数名叩き落し、金色の髪の王子へとーー
「「ラセイン」様!!」
一瞬の出来事だった。
シーファとアランがその身体を庇って魔物の前に立ちはだかり、両側から迫った二体の海竜が、それぞれ二人の身体に同時に喰らいついたーー
「……っく」
苦痛に満ちたそれは、どちらの声だったのか。
それを認識する間もなく、リティアの悲鳴が響き渡る。
「ーーきゃあああぁぁっ!!」
「……っ!」
アランが反射的に、自分に喰らいついている海竜の目に剣を突き立て、魔物は苦悶の声をあげてその衝撃に彼を落とす。
しかしもう一体はシーファを咥えたまま、ザアンッと音を立てて海へと潜った。
もう一体もそれに続き、魔物は深い海の底へと逃げて行く。
リティアは弾かれたように駆け出した。
「シーファ!嫌だ、お師匠さまあああっ」
後を追おうと必死で、海に飛び込もうとした彼女を咄嗟に騎士達が止めた。
「無茶です、リティアさん!」
「嫌だ、離して!シーファが、死んじゃうっーー!!」
悲鳴まじりに叫んだ彼女の目に映った、桟橋に残る赤。
「……なに、あれ」
あれは。
シーファの血だと分かった瞬間、何かが爆発した。
「いやぁぁああーーー!!」
『まずい、ラセイン止めろ!アルティスの力が暴走するーー!!』
フォルレインの声と。
「リティアさん!!」
ラセイン王子の声と。
『ーー駄目だ、リティアーー』
助けて、アルティス。
ーーシーファを、助けて。