My place
***
頬に触れた水の気配。
ーー離れていたのは数日間だというのに、もうずっと前のように懐かしい。
セインティア王国のみずみずしい空気に、リティアは大きく深呼吸する。転移の魔法で送られたのは、フォルディアス城の中だった。魔法陣から一歩出ると、光の薄れた視界の向こうから、待ち構えていたセアラ姫がリティアを抱き締める。
「リティア……!お帰りなさい、もうこの子ったら。二度と一人で居なくなっては駄目よ」
躊躇いなく包むその腕の優しさに、リティアは潤んだ瞳で応える。
「ただいま帰りました。心配を掛けてごめんなさい、セアラ姫、ラセイン王子」
姫の背後に居て見守っていた弟王子へも声を掛けると、二人は同じように微笑んだ。
「お帰りなさい、リティアさん。シーファも。アラン、ご苦労だったな」
ねぎらう主に、アランは跪き頭を下げる。
「もったいなきお言葉にございます、わが君。
ーーとは言え、あなたの犬は頑張ったので、2時間の睡眠というご褒美を頂ければ恐悦至極に存じます」
え、と目を見開くリティアに、シーファがにこりと微笑む。その顔がわざとらしいくらい美しい。
「フレイム・フレイア王国の気候がキツかった上に、ほぼ不眠不休で城に入り込む方法を探らせて、魔導士に成りすますために基本動作を叩き込んだあげく、侵入したら兵士達相手に立ち回り。トドメは魔力耐性のない身体で転移魔法。まあ普通の人間ならこの辺で倒れるな」
「えええっ!そ、それ私のせいですよね、ごめんなさいアランさん!!」
彼の思わぬハードワークを聞き、慌てて謝るリティアに、アランはヒラヒラと手を振る。
「リティアさんのせいじゃないって。そこの人使いの荒い、横暴エロ魔導士のせいだから」
「ちなみにそのときウチのお師匠様は」
「『睡眠取らないと集中力落ちて、魔法の精度が保てん』とか言ってグウグウ寝てたなあ」
実際、それ以外のシーファはリティアを心配して荒れまくり暴れまくりだったのだから、寝ていてくれてある意味助かったのだが。
引きつった顔であははと笑う近衛騎士に、リティアはすみません!ホントすみません!とか言って頭を下げ、太陽のような誰もが見惚れる笑顔で、アランの主君が微笑んだ。
「大丈夫です、リティアさん。ご心配頂かなくても、精鋭揃いの我が近衛騎士団の一員ですよ。これくらいで倒れたりはしません。ではアラン、報告を」
「つまり仕事してから寝ろという意味ッスか!眠い眠い眠い眠い~!今すぐお布団入りたーい」
子どものように駄々を捏ね始めた、この場の誰よりも年上の成人男性に、聖国の金の薔薇がにっこり微笑む。
「そうね、アランはよく頑張ってくれましたわ。
もちろん我が国を侮ってくれた砂漠の王様の弱みのひとつやふたつ握って、外交交渉を有利にする材料を手土産にした上での休養ですわよね?セインティア王国第一近衛騎士団、第三部隊騎士隊長兼王太子直属特務補佐官、アラン・フォルニールともあろう人が」
「セ、セアラ様まで!!」
悲鳴じみた声で、アランが言う。
な、なんかものすっごく長い肩書き出た。それでなんかもう、アランさん泣きそうなんですけど。
リティアはおろおろと全員を見回して。
「なんかあの、うちの兄がご迷惑をお掛けして本当にすみません……」
と、謝っておいたりしたのだが。
シーファはニヤニヤするばかりで、友人を全く助けようともしないし、セアラ姫もラセイン王子も、なんだかキラキラ120パーセントアップの笑顔が怖い。
「あらいいのよ、リティアが謝ることは無いわ。わたくし達アランに期待しているんですもの。ねえ、ラセイン?」
「もちろんです、姉上。僕達の信頼に応えてくれるだろう、アラン?」
「……御意」
アランは眠気に絶望的な気分で頭を垂れた。
ちくしょうこんな時のロイヤル姉弟、ほんっと息ぴったりだ。砂漠の王様ボコってやる作戦ーーもとい、リティア救出に参加できなかった八つ当たりか。仕方ないけど!俺だけなんか面白いもん見ちゃったし!
アランは溜息を隠した。
魔導士アルティスーー伝説の存在。
魔物を浄化するまでに成長したリティアの力。
二人の大魔導士と、魔物にまで愛された少女。
魔法大国セインティアに生まれてもなお、目にすることの無かった奇跡。この先、それがセインティア王国への福音となるのか、それともーー。
そこまで思って、ふと少女を見つめた。もし、もしも、彼女が俺の主に害なす存在になったら、俺は迷い無く彼女を討つだろうけど。そんな日が来なければいいと思うほどには、気に入っているんだよな。
シーファの選んだ子だし。俺も信じよう。唯一、銀の魔導士を揺るがすことの出来る存在を。
「……は、おにーさんオットナ」
「お前の言う大人というのは、主君の前で半目で眠りかけのどうしようもない男のことかな」
「勘弁して下さい、ラセイン様あ」
そんなやり取りを聞きながら、シーファは、一通り挨拶を終えたリティアの腕を引いた。いとも簡単に、弟子は彼の胸へ引き寄せられる。
「お前も少し休め」
優しさを込めて彼から言われた言葉に、リティアは頷きーー
「ほら、来い。お師匠様が添い寝してやるから」
「えっ!?」
流し目から滲む色気と共に付け加えられると、見る見るうちに真っ赤になって硬直した。
「あの、それは、あの?」
「悪いが。もう待てない」
なにが?
大混乱中の弟子を見下ろして。
ふ、と。銀の魔導士が微笑んだ。
***
外は夕刻ーーフォルディアス湖が金色に輝く時間。彼に手を引かれたまま、長い回廊をゆっくり歩いてゆく。赤い陽光に照らされた師の髪が磨いた銅のような色に輝いて、リティアの目の前で揺れる。
夕陽に照らされた空は強いオレンジから紫へのグラデーションに溶けて。セインティア王国の美しさがひときわ輝く。
転移魔法の部屋を出てから、シーファは一言も話さない。けれど彼を包む雰囲気は穏やかで、リティアの手を握る力は優しい。その横顔も、ただ静かで美しい。沈黙も、心地よいくらい。
ふと外に目を向ければ、そこにはあの薔薇園があって。あの夜を思い出す。
彼女の心を読んだかのように、シーファがそこで立ち止まった。
「もう一度、ここからやり直すか」
言われた言葉に、リティアは目を瞬かせた。
「……ここを嫌な思い出のままにしたくないだろう」
シーファは彼女を労るように、じっと見つめて言う。その瞳には、確かに心配するような色が浮かんでいて。リティアは彼の優しさに驚きーー笑った。
「嫌な思い出になんかなりません。私にとってはーー夢のように幸せで、恥ずかしくて、照れくさくて、切なくて、嬉しかった」
柔らかな笑みでそう答える少女の手を、魔導士は引き寄せ、その指先を持ち上げて唇を落とす。
「生意気言ったな。ーーお仕置きタイムだ、馬鹿者め」
彼の呪文を受けて。リティアの周りに風が巻き起こった。
「あ」
薔薇の茂みを揺らし、彼女を取り巻くように薔薇の花びらが舞い狂う。彼女はその美しい光景にただ見とれて。目を離すことができないまま、ポツリと呟いた。
「……お師匠様、庭師の方に怒られますよ」
「色気の無いことを言うな」
「ほんっとにほんっとに、あなたって人はロマンチストですよね」
「そうかもな」
「どうせ色々な女性に、こんな手を使ってきたくせに」
「俺が口説くために魔法を使うのは、お前にだけだ」
「もう止めて下さい、破壊神ですかあなた。心臓壊れる」
彼女のその頬が、夕陽のせいばかりではなく、真っ赤に染まっているのを見つけて。ーー指に触れていた唇が、笑みを浮かべた。
「私は、お前の願いを叶える魔法使いだ」
彼の口は、その言葉を紡いだ次の瞬間、リティアの唇を塞いでいたーー柔らかな感触と、自分とは違う温度の熱に。リティアは思わず目を見開いてからーーゆっくりと閉じた。
何度触れられても、慣れない。けれど、幸せでめまいがする。
角度を変えて、けれど触れるだけのキスをしてシーファが離れると、リティアはそっと目を開ける。その胸元ーー溢れる光と共に現れたアルティスの秘石は、夕陽を受けて深紅やオレンジに煌めいて。それを包み込んだシーファの手の上から、自分の手を重ねた。
彼の青い瞳が、紺碧の海に浮かぶ火のように不思議な色になって。
自分の髪や瞳が、砂漠の兄と同じ燃えるような色に照らされているのを感じる。
「「我は命ずる」」
重なった声は、不思議なほど調和して。
「「アルティスの秘石に、しばしの眠りを」」
その手の中の秘石はまた、リティアの中に溶けた。
「……どのくらい、もつかな」
「一晩が限度……ですけど。シーファがドキドキさせるから、すぐ解けちゃうかも。もっても二、三時間くらい……」
「まあ、とりあえずは十分だ」
内緒話のようにヒソヒソと二人で呟いて。それから顔を見合わせて、シーファは吹き出した。リティアの顔は泣き出しそうな程に困っていて、その頬は赤い。
「可愛いな、馬鹿弟子」
「だから!仕方ないじゃないですか、こっちは完全に初心者なんです!っていうか、可愛いけど馬鹿なのか、馬鹿だから可愛いのか、はっきりしてくださいよ!」
なんでもない言葉にまで突っかかるのは、照れ隠しなのか。
リティアのふくれた頬に指をやると、摘まれると思ったのか彼女は慌ててその指を押さえるーーが。
「わ、っ」
そのまま彼女の頭ごと引き寄せて、シーファはもう一度唇を重ねた。今度は深く。何度も。
「……っ、ん」
いきなりの熱に、リティアは息が上がってしまう。
ーーけれど今度は、アルティスの秘石は現れない。
「ああ、うまく魔法がかかったみたいだな」
しばらくアルティスの秘石を閉じ込めておく制御魔法ーーリティアがフレイム・フレイア王国で使ったもの。けれど今度は二人掛かりで、きちんと呪文も詠唱している。リティアに負担はかからないだろう。シーファは満足げに頷いて、そのままリティアを抱き上げた。
「え、あ、あの、シーファ」
え?
リティアには何が起きているのか分からない。彼は足早に回廊を突っ切ると、自室の前まで来て扉を蹴り開けた。
「お師匠様、お行儀悪い!侍従長に怒られちゃいますよ」
リティアのどこかズレたツッコミに、師は苦笑して。
「それより自分の心配をしろ」
とそのまま進んで行く。
「心配って……?」
彼の言葉にリティアは首を傾げ、そんな彼女をシーファは腕に抱いたまま。ひとりでに開いたその先の扉の中へ入るーー今度は魔法を使ったらしい。
「休めとーー添い寝してやると言ったが、撤回する」
リティアが降ろされたのはーー寝台。
「あ」
そのままシーファはリティアに覆い被さり、彼の手が、リティアの頬を包み込んだ。先ほどの魔法をかけた時から。どこか分かっていたのに、一気に緊張していく。恥ずかしさと、期待と、不安で胸が押しつぶされそうになる。
目の前に居る銀色の髪の魔導士が、妖艶に笑うからなおさらだ。
「今からしばらく寝かせない。お師匠様の言うことを聞いてもらうぞ、馬鹿弟子」
リティアの返事を待つこと無く。
銀の雨が降り注いだ。