I tell a lie for you
「シー……」
リティアの口が彼の名を紡ぎかけてーー止まった。ここで、呼んではいけない。
しかし時既に遅く、兄は彼女の様子に気づいてしまった。彼女が怖れを浮かべるよりも先に、鋭く言い放つ。
「捕らえよ!」
たちまち黒髪の青年と、ローブの魔導士は兵士に取り囲まれる。床に膝をつき、後ろ手に拘束された。押さえつけられた魔導士のフードを、一人が引き下げるとーー
「アランさん……!」
リティアは悲鳴混じりにその人の名を呼んだ。魔導士に扮していたのは、セインティア王国の近衛騎士だったのだ。アルヴィオス王は眉を上げる。
「セインティア王国の近衛騎士が、なぜ我が国に?」
アランは不敵に笑った。
「“探し物をしていて、偶然”ですよ」
アルヴィオス王は自分が使った手を揶揄されて、その顔に怒りを浮かべる。しかしーーその怒りの矛先は隣に取り押さえられている黒髪の青年に向かった。
美貌は平凡な顔に隠され、長い銀髪は短い黒髪に、青い瞳は黒曜石に変わっていても。今や不敵な笑みを浮かべた彼は、かの大魔導士。
「そなたは銀の魔導士シーファか。姿を変え何しにここへ?まさか我が妹を攫いに来たのではあるまいな。リティエルシアはもはやお前の弟子ではなく、フレイム・フレイア王国の時期王妃だ」
違う!
リティアはその言葉に、弾かれたように顔を上げた。否定したかったがーー兄の視線に気づく。
答えを間違えてはいけない。私が失敗したら、シーファとアランさんはこの場で殺される。ここはもう、アルヴィオス王の領域なのだ。
リティアは一度、強く瞳を閉じた。口を開くことが、こんなにも酷く辛いのは初めてでーー涙を必死で押し隠す。
「……シーファ、私はアルヴィオス王と生きていくと決めたんです」
どうか、許して。
「もうあなたを愛してはいません」
進みでてーー床に膝を付き押さえられたシーファと目線を合わせる。逸らしてしまったら、きっと彼は気づいてしまうから。リティアの本当の想いに。
あんなにも逢いたかった人なのに。
二度と逢えないと思った人なのに。
許して、シーファ。私はいつもあなたを傷つける。
リティアはシーファに、
ーー初めて彼女から触れるだけの、キスをした。
けれどーー
アルティスの秘石は現れない。
「これが証」
彼は何も言わない。ーーただ、目を見開いた。
「私はーーフレイム・フレイア王国の王妹リティエルシア。あなたのリティアは、死んだの」
銀の魔導士の弟子は、あなたの愛してくれたリティアは。
あなたが危険を冒してまで救おうとしたリティアは。
「もう、いないんです」
囁くようにそう告げて。リティアはさっと立ち上がった。シーファから目を逸らして、兄を見つめる。
「アル兄様、これでわかったでしょう。これ以上彼らを害す理由はありません。私はあなたの元を離れない」
セアラ姫の『営業用』の顔を思い出す。優雅に、決して心を見せず、けれど親しさを感じさせる笑顔を。
『リティア、女性にはこういう顔が必要になるのよ』っておっしゃったこと。本当ですね、セアラ姫。あなたは本当に、素晴らしい先生です。今この瞬間でさえも。
リティアは兄へと微笑みかけた。
「どうか御慈悲を。元々は私がお世話になった方々です。セインティア王国と争いの火種を作ることは、兄様の今後の為になりません。……ひいては隣に立つ私の為にも」
言外に、“王の妻となり、共に国を支える存在になる”と。
そう含ませてやれば、アルヴィオス王は喜色を浮かべてリティアを抱き締めた。
「ああ……そうだな。これほど嬉しいことはない。その二人は城外にでも放り出しておけ」
王はもはや侵入者など興味を失ったかのように、命令を下した。
「リティアさん!」
思わず、といった様子でアランが呼ぶが、彼女は振り返らない。振り返ってはいけないと知っているからだ。
彼らの命さえ護れるなら、何だってする。兄に偽りの愛を囁くことだって。
軽蔑されても良い、嫌われてもいい、生きていてくれたら、それで。
けれど彼らの表情を確かめるのが怖くて、兵士に連れ出される二人を見ることが出来ず、リティアは唇を噛んだ。
「リティアさん!」
もう一度呼びかけるアランと対照的に、シーファは何も言わない。
お願いだから、そのまま何も言わないで。
彼の声を一言でも聞いたら、何もかも崩れてしまいそうだ。震える拳を悟られないように、必死で抑えながら。
言えずにいた言葉。
言わなくて、どこか安心していた言葉。
けれど、言わなくては。
「さようなら」
シーファ。
ーー私は、あなたの為に嘘をつく。そして、あなたを失うの。
兵士に連れられた二人の姿が見えなくなると。
「よく言ってくれた。私のリティエルシア」
アルヴィオス王は妹に頬を寄せて口づけようとしたが、彼女は俯いてぽつりと零す。
「申し訳ありません……気分が、悪くて。先に部屋に戻ります」
「ああ、顔色が悪いな。テオは……居ないな、どこへ行った」
「一人で戻れますから」
リティアは付き添いを拒んで、謁見の間を出た。
いつも傍に居るテオが居ないのは珍しかったが、今はその方がありがたい。シーファ達が起こした混乱の為に、城内の注意は謁見の間に集中していて、廊下にあまり人が居ないのも彼女には好都合だった。
今は時間が惜しい。一秒でも早くーーひとりになりたい。早く、早く。
誰にも見られる訳には行かない。けれど自室まで戻る余裕は無い。足早に廊下を歩き、誰もいない奥までたどり着くと。
「……っ、う、ぁあ……っ!」
リティアは耐えきれなくなった苦痛に、悲鳴を押し殺して胸を掻きむしった。心臓に強く激しい痛みーーアルティスの秘石を、無理矢理に閉じ込めておいた反動だ。
フレイム・フレイアに来てからも、リティアは秘石の制御の鍛錬は続けていた。実践したのは初めてだがーーそのおかげで数分でも秘石を出さないように堪えることが出来たのだ。あの場に居た全員を騙す、一番手っ取り早くて確実な方法。
こんな形で試すことになるとは思わなかったが。
「く、うう……ッ」
ちゃんとした手順ーー発動呪文だけでも唱えられれば、これほど負荷は掛からなかったかもしれない。けれどあの場ではどうすることも出来ず、とにかく力ずくで抑え込むしか無かった。
「あああ……っ!」
弾けるように、アルティスの秘石が姿を現す。
「……っ」
その光を誰の目にも触れないように手のひらに握りしめた。ぼろぼろと溢れる涙を、痛みのせいだと思うことにする。
痛くていい。痛くて、苦しくて、いい。そうしたら、紛らわせる。本当に痛むのは、心臓じゃなくて、心だもの。大好きな人を騙して失った痛みに比べたら。
治まらない激痛に立って居られなくなり、彼女はズルズルと壁にもたれて座り込んだ。痛みで朦朧とした意識の向こうで、誰かが彼女の前に立った。
「……よくもやってくれたな。ちょっとビビったじゃないか、馬鹿者め」
……え?
「よく制御できるようになったなと褒めてやりたいところだが……。嘘でも愛していないなどと言われると堪えるだろう。これでも私は繊細な男なのだからな」
うっそだあ、と彼の後ろで笑いを含んだ声がする。リティアはどうして、と呟いた。声にはならなかったが、彼らは微笑んだーーように感じた。
「お前のことなどお見通しだ、馬鹿弟子」
「城の中にさえ侵入しちゃえばこっちのもんだよ、リティアさん。兵士達ぶっ飛ばしてきちゃった」
その声は、リティアがずっと求めていたもの。
失う覚悟を決めたばかりなのに。どうして。
その姿が、涙で見えない。
震える手で、アルティスの秘石を握りしめると、それに気づいたのか彼がふ、と笑ったようだった。よく、見えない。
「シーファ……」
だから、彼の名を呼んだ。ずっと呼びたくても呼べなかった、愛おしい名を。
「お前を取り戻しに来た。銀の魔導士の唯一の弟子にして、偉大なるアルティスの器……であり」
嘘ついて、ごめんなさい。
本当は好きです。今でもずっと。
「俺の愛する女、リティア」
愛してる、シーファ。
あなたはいつも、私の望みを叶えてくれる魔法使い。